第八八稿(反テロ行進のゆくえ。シャルリー・エブド) - スポンサー広告語学・文化交流あるいは絶対的相対主義
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第八八稿(反テロ行進のゆくえ。シャルリー・エブド)

さる日曜日(2015年1月11日)、オランド大統領の肝いりにて"国民的"行進がパリ市内のレピュブリック広場からナシオン広場まで行われたわけですが、その二広場を直線に繋ぐ大通りは3km程の長さにて、その名も「ヴォルテール」大通りと言う。ヴォルテールと言えば、表現の自由にて反教会・宗教の立場を貫いた人だから(当時はもちろんキリスト教会に対して)、広場の名前【共和国】から【ネイション】へ、と相まって、選ばれるべくして選ばれた道のりのようにみえる。逆に言えばこんな都合の良い組み合わせがうまいことあったものだな、とつい感心すらしてしまう。前稿前々稿で書いたように、今回の事件に関しては私は多少は穿った見方をしているので、当初参加するつもりはなかったのだけれども、比較的素直な心持ちのある連れが参加したいと言うことで、「私はチャーリー」との御札は持たぬ、という条件にて参加してきたのでした。現場を見なければ何も言う資格はなかろう、と思うのも本当なので。

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午後14時ころから出発して、帰宅したのが20時過ぎ位だっただろうか。当方少々風邪をひいていたので、この長丁場は辛かった。それにしても人々の多いこと。もともと「道に降りる」(=マニフェストする、デモ行進する)ことの頻繁な人達ではあるけれど、今回はとにかく過去最大規模の人出にて、身動きするもままならぬことがしばしばだった。出発点のレピュブリック広場に到着した時にはすでに、中央のモニュメントの中ほどまでは若者たちがよじ登り、さかんにシュプレヒコールをものしている。さまざまの国旗が打ち振られ(なぜブラジルやアルバニアの国旗なのかは謎だが、個人的には旧ソの旗が気になった。とは言えいずれも大きな意味はなさそうだ。)、そしてもちろん「私はチャーリー」のプラカードは多数だ。鉛筆やペンをもじったオーナメントも数多く目にした。表現の自由を謳うためだ。

あまりに声高に言われる正論の胡散臭さ、について私自身も前稿にて指摘した通りだけれども、現場にて実際それはあまりに声高に、文字通り声を枯らさんばかりに叫ばれたので、「言論の自由vsテロリズム」なんて多面体の一面にしか過ぎぬものが、どうしてもクローズアップして見えてしまう。人々はむしろ熱狂していると言ってもいいくらいだ。私はそれで、帰宅の後にもう少し、何か異なる意見が聞きたくなる。まさか、私以外の地球上の全ての人が心からそれを信じてる、なんて事態であったならどうしようか。

「言論・報道の自由守る」 なんて、単純なことを言ってるけど

庄内拓明氏の「知のヴァーリトゥード」より、ブログ部分にて。風刺を受け入れるためには文化の成熟度が必要であり、という部分はもっともだと思いつつ、私個人としてはそれを経済発展の度合いと持続期間*とあえて数値化できる指標にて読み替えるのだけれど、それはともかくおおよそその通りだと思わざるを得ない。実を言えば、そんな風に考える人がやはりいて内心ほっとしたのと同時に、そのこと自体が寂しくも少々悲しい。つまり、少し離れた地点から眺めてみれば、余裕のない態度でダメじゃないか、と思われる、そのまさに余裕のない態度であれだけ現場で盛り上がっていたヒトビトは、この先一体何処へ向かうのだろう。近視眼的見方をするのならば、次の選挙で単に極右が議席数を伸ばすのだろうし、ルペンなどはホクホク顔のはずだ。ただ、それは今のところどうでもいい。

13日の毎日新聞でようやく犯人を少なくともひとりの人として扱う記事が出て(悪魔でもなく"テロリスト"でもなく)、生来悪人魂をどこかに持っていると自覚している私なぞは読んでいて普通に悲しくなる。物静かで優しい?それはそうだろう。行進の最中、マルセイエーズは正直聞き飽きたと思ってしまうけれど、こんな軍歌、敵に感情移入するような軟な人間には心から歌えたりするわけはないのだと腑に落ちる。軍歌とは、虐げられている人々が歌うと悲壮にも格好の良いものに違いないけれど、私には行進の人々が虐げられているとは見えない(それ自体は良いことだ)。

そして、これが私だけではない、とするならば(実際そうだと思う、世界各地の報道など見るにつけ)叫ぶ人々はむしろその理解の壁の中だけに留まり、自らだけが正しいと思い込み、自らだけが攻撃されたと思い込み、信じ続けついに立派にその意見を変えることはない。私も含め、意見など皆そうそう変えはしないのだ。だから、変える、よりも混ざる、方が効果的ではなかろうか。少なくとも、ネイション(≒民族、国民)が最終的目的地だと思うだけでは、例えそれが理想に満ち満ちたものであったとしても、人はこれ以上大きく進歩なんかしないだろう。


*直接関係はないけれど、いわゆる欧米のレディー・ファースト文化も単にその結果である、と私などは考える方だ(少なくとも、大きなウエイトを占めていると思っている)。日本の80年代がおよそ半世紀ほども続いていたら、アッシー君は文化に根付いたのではないだろうか。そして、そのことと女性の地位の向上は実は正の相関関係になっていない。個人的にこちらの男子が意外と意地悪いことなどを見るにつけ、教育レベルでカバーできる作法や振る舞いは、単にそれにしか過ぎない、と思ってしまうのだ。あまり夢を見てはいけない。
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Comments - 2

tak-shonai  

ご紹介、ありがとうございます。

当ブログ記事のご紹介、ありがとうございます。
こちらでのトラックバック表示もさせていただきました。

これから、時々こちらに寄らせていただきますので、よろしくお願いいたします。

2015/01/23 (Fri) 12:42 | EDIT | REPLY |   

車輪の上  

わざわざ

ご丁寧にありがとうございます。これからも小股の切れ上がった関節技を期待しております!
こちらこそ宜しくお願いいたします。

2015/01/24 (Sat) 05:27 | EDIT | REPLY |   

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