第4982バナナ(フクシマとシャルリー・エブド、冗談と「正しい」言葉遣い) - スポンサー広告5000夜(文章ノート)

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第4982バナナ(フクシマとシャルリー・エブド、冗談と「正しい」言葉遣い)

私は時々、自分は冗談も通じぬ面白くない人間だと思う。けれども、何を、どこまで冗談にできるのか、と言うのは実はとても繊細な問題だ。笑って済ませられない問題とはとかく多く、とりわけ世の中の人々の様々の違いや、そのかしこに潜んでいる弱さを思えば、決して気軽には扱えない。あからさまに何かを揶揄するような表現や、特定の人々を笑いものにする軽率なくだらぬバラエティ番組などは言うに及ばず、私達の日常の何の気なしの会話にも気を付けねばならない。

とは言え、それでは息が詰まる、という人も多かろう。何も言えなくなってしまうと批判もでるだろう。確かに(第三者を)笑う事で人を繋ぐこともあれば、むしろ直接親愛の情を示すような事さえある。口の悪い人々の中には、通るか通らぬかギリギリのところを探りながら、仲良くなろうとするような節さえ見受けられることがあるように思う。例えば身近なネット空間でのくだけたラフなやり取り等も、仲間内での親密さを担保する性質を持っている。

これは一種のテストなのかも知れない。私は以前、おそらく日本人が珍しかった環境にいたからか、様々のテストを受けたように思うし、その対抗策としてフランス人と大阪人の共通点なるものを仮定して、いろいろに好き勝手に考察を加えていたことがあった。(確かに大雑把に言えば、仏人は東京人よりは大阪人に近く、実際「オーザカ」が大好きな日本通は多い。気取らず本音が見え親しみやすい、位の感覚だろうとは思うが。)
その時思っていたのは、彼らはいずれも子供時代に比較的けちょんけちょんに言われながら育つので、長じた後もそんなやり方で他人との距離を測ってるのではないか、というものだったが、今ではあまり説得力のある仮説とも思っていない。そもそも、人の集団をきちんと比較するというのは想像以上に難しく、あまり勝手なことは言わないようにしている。どちらも口さがない、というのはある程度事実だろうけれど、それさえも定量的に示すのは容易ではないからだ。そもそも、なんでもいちいち笑いを取りに来る、そんな慣習が嫌いな大阪人だっている。

いずれにしても、私の経験から言うならば、顔面を無理矢理つり目にさせられたりするのは、むしろ個人的好意の表れだと都合よく解釈するべき類のもので(そんなことをするのは子供か若い女の子にきまってる)、またある種の地域を旅しているときのニーハオ攻撃や、北アフリカでのジャッキー・ションアタック(ジャッキー・チェンのこと、通りを歩いているとおよそ100m毎に言われる)だって、慣れてしまえばどうということもなかった。別に私はそこに悪意は見出さなかったし、即座にカンフーアクションをして見せる位の返しができるようになれば上級者だ。

私の家人にしても、当初私が箸を使って料理をしていたら、それを喜んでわざわざ自分の娘に報告していたのを記憶しているし(「ねえ、あの人ったらオハシで料理してるのよ」的な感じだろうか)、私が箸に慣れているのは自然なことで別に誇らしいとも馬鹿にされたとも思わぬけれど、珍しいのだからまあそういうこともあるだろうと思うしかない。好奇心を満たし笑って貰えるならそれも良いだろう。

ただ、これらが問題になる時がある。例えばフクシマの件では既に巷で散々に話題になっていたと思うけれど、やはり同じような事が個人的にもあった。同僚と食堂で昼食をとっている時だったが、魚か何かが例によってスーパー変化を遂げるだとかの冗談を振られたのだ。およそそういう気の利かない事をつい言ってしまうのは世界中どこでもお調子者の男子と相場が決まっており、同席の女性は明らかに反発を示し抗議の表情を浮かべた。でも、私自身はその場では事を荒げぬべきと笑って受け流したのだ。しかし、その姿を醜しとする人達もいるだろう。それに、私は単に、その女性を前にして余裕を見せたかっただけかも知れない。

また違う時期、異なる場所でのことだけれど、かつてコンゴ人の同僚がいた事がある。長身の美丈夫、かつ頭が良く漢字が得意で、そして穏やかな性格の優れた人であったが、ある日、彼のデスクに向かうと一人黙々とバナナを食べている。それもスーツをパシッと着こなし、素晴らしく良い姿勢で。申し訳ないが、これには吹き出さずにいられなかった。理由は、(私にとっては)あまりに絵になっていたから、としか言いようがない。
勿論彼は、そんな私の反応を咎めなどしなかったが、果たして共感は得られるだろうか。少なくとも、私と同じ理由では笑わぬとは思う。確かにバナナは誰でも食べる。ただ、体躯の良い黒人が、スーツを着こなし背筋を伸ばして食べるそれは、私には好ましくも可笑しく見えたのは事実だ。様々の有形無形の象徴がその中にはある。

近頃、テレビのバラエティで「ヘンな日本語」を話すアフリカ系の芸人(?)をネタに笑いをとる、という動画をたまたま見かけた。教室が舞台で、教師役にはもう少し「マシな日本語」を話す欧米系の芸人が充てられており、正直唖然としてしまったけれど、面白いかと言われると確かについ笑ってしまうシーンもある。あたかも未開人を文明人が教育すると言うようなこんなベタな設定は、今どき世界中どこでも許されないように思うが、それがテレビの企画を通るとすれば、日本は存外と「平和」なのかも知れない。

あるいは単なる世界の田舎なのか。

でも、本人たちは笑って貰えるなら良いと思ってるかも知れない。私も時に「ヘンな仏語」を喋っては笑われている。結婚生活の良い潤滑剤ぐらいの感覚だ。ただ、柄にもなく傷つくこともなくはないけれど。(しかし――「正しい〇〇語」と言うのは幻想に過ぎない。多くの人々が無批判に信仰しているのも確かだが。)

問題は、弱い人々がいつでもどこかにいて、弱さがいつもどこかにあり、それが尽きぬ事自体にあるのだろう。人間の尊厳、なるものが意識されるとするならば、逆説的にそれが危うい状況が社会と個人の中にあるからだ。そうでなければ、すべては笑い話で済むのかも知れない。そして今のところは、それでは済まないと言うのがPC(ポリティカル・コレクトネス)の立場だろう。一種の対処療法に過ぎぬのかも知れないが、頭痛持ちの私はそれを諒解のうえで薬を飲み続けることだろう。

キーワード:フクシマ、シャルリー・エブド、PC、差別、ステレオ(ステロ)タイプ
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