第4983カウンター(ヘイトスピーチと自己嫌悪) - スポンサー広告5000夜(文章ノート)

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第4983カウンター(ヘイトスピーチと自己嫌悪)

右か左で争うのではなく、上だろうという言説を見かけたのだが確かにそうかも知れないと思う。もしかすると上でさえないのかも知れないが、便宜的に上としておく。いずれにしても敵が欲しいのが私達とするならば、どこかに的を定めなければならない。下(つまり弱)を標的とするのは、生物としてはあり得ることなのだろうが、いやむしろ、厳しい環境圧次第では種や集団の生き残りの為に率先してやってきたことなのかも知れないが、それは「人間」としては一応目指すところではない。

時に私の友人の細君が義太夫をやっている関係で、浄瑠璃を色々と聞く機会があったのだけれど、10を聞いて10の全て、まったく共感することができなかった。いずれも、「殿様」という絶対者が上にいて、下々が義理と人情に挟まれ汲々とする物語ばかりだったからだ。義理のためなら時に我が子でも殺す。むしろそれが美しい。
そんな世界では社会は安定し、文化や文学は涵養されるのかも知れないが、いずれにしても少なくとも今日的ではない。ただ、人はいつでも何かに規定されがんじがらめになる、ということ自体には、またそれでも生き抜き人生は続く、というような捉え方をするならば、今日でも十分に通じる文学的な要素は多分にあるのかも知れないが。武士道とかに美学を求めがちな人達には親和性がありそうだが、それは今回のテーマではない。

上下ではなく左右のことに話を戻すならば、互いに攻撃しあう人が多いというのが今日の印象だ。いずれの側も実は水平上に位置していて、上空のことは目に見えないからかも知れない。ともあれいわゆる「ネトウヨ」を叩く「正しい」言説を良く見かけるようには感じている。
情報化の進む今の時代、人は決してまんべんなくそれを得ているわけではないので、私が意識的あるいは無意識に選んでいるものが偏っていると言えばそうだろう。でも同時に、過激に叩く人達の意見が目につくのも事実だ。そして中には一種のヒステリーを認めることもある。「人種差別をしない」と言うような明らかに「正しい」と思っていた事が、やすやすと破られることに耐えられないのだ。そして頭に血が上るのであれば、実は自らの内に同質のものが隠れている可能性がある。と言うより全ての人の中にありうる事ではないだろうか。それを倫理と教育で抑えて生きているのが今日の近代的人間だろう。極端なヘイトの例は決して大多数の意見ではなかろうと私個人は思うが、批判ないしは非難、果ては攻撃的な言説の多さを見ると、これはこれで何を恐れているのだろうと思うこともある。

かく言う私も、コテコテのヘイトスピーチを目にすれば怒りを感じるし、とりわけそういうものが目につき始めた頃は相当に衝撃を受けた方だ。今でも、それに慣れたと言いたいわけでもない。と同時に、自他の境が様々な要素ではっきりしている以上、それを区別することは私達の本質で、またそれが差別に容易に繋がるのもかなり自然なことだと言わざるを得ない。問題は、要は私達が他者を、身体的なレベル、次いで精神的レベルで敵認定してしまうことにある。

アフリカを旅した時、人々はおしなべて大きく肉体は強く、例えば暗い夜道で怖いと思わなかったことなどない、と言わなければならない。空港を出れば、子供たちが大挙して押し寄せ有無を言わさずトランクを奪って勝手にタクシーに積んでしまう。もちろんチップを要求するためだ。頼んでないじゃないか、と言えばもう押し問答で、数でも圧倒されれば体格も既に大人並で、ほとんど恫喝されるようにして結局は渡さぬ訳にはいかない。
もちろん、仕事をしたのだから寄越せ、とは強引ながらも良く考えてみれば正しいのだ。仕事とは世界のどこでも取ってくるものなのだし、そのやり方が洗練されているかどうかが違うだけで、本質に変わりはない。彼らにとっての営業とは、旅行者のトランクを我先にと奪うことであり、それに仕事の機会とは絶望的に限られているのだ。とは言え、「よく考え」なければ、そういった見解に達しえないのもまた真だろう。別に私は大金持ちなんかでもないし、直接なにか悪さをしたわけでもない。身一つで、むしろ友好の為に来ているのに、なぜ攻撃され強制され奪われなければならないのだろう、としばらくの間は煩悶することになる。そして自らの納得できる答えが見つけられなければ、次第に敵認定していくのが人間だ。

私達は自分を守り、家族次いで同胞を守りたい、という本能から逃れられない以上、差別はあり得ることだと思う方が良い。野放しにしていいのか、とまた糾弾するのかも知れないが、矯正すれば済むのかと問いを立てる要はあることと思う。いわゆるPC(ポリティカル・コレクトネス)の問題は、コレクトネス=「正しさ」の持つ、危うさにももう少し目を向けた方が良い。攻撃の強い人は、実は我が身にも潜む差別意識に無意識ながら激高しているのかも知れない。そうだとすれば気持ちはわかる。私も差別的な感情を持つ時には嫌な奴だと自ら思うから。でも少し許してやった方が良いように思う。石を打てる人とは実は一人もいないのだ。人は差別するのが実は普通、位に多少は緩めに構えつつも、少しずつ粛々と進めていくのが方法論としては優れているように思われる。

キーワード:封建時代、人形浄瑠璃、ヘイトスピーチ、カウンター、ポリティカル・コレクトネス
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