第4985スシ(外交史料館と戦争省)
夏季休暇中に在外研究に来ているとある研究者と連れだって郊外の外交史料館と言うところへ行き、百年程前の古い史料を山ほど手繰って写真に収めてきた。その数およそ千枚ほど。これをまだ数日間は繰り返すので、総数は数千枚になるのだろうと思う。手書きの史料なので非常に読みづらい上に、写真を撮りながらなので今のところは大雑把なことしかわからないけれど、それでも興味深いものが散見される。中でもその名もズバリ、「戦争省(ministère de la Guerre)」の文書が目を惹く。その他にも海軍・植民地省(ministère de la Marine et des Colonies)なんてのもあった。よく考えてみれば、今では防衛省等と名称を変えて存在するのだから別段驚くに値しない。それでもこの名称はそれなりに胸を打つ。軽く衝撃を受けたと言っても過言ではない。
外交文書だから、手書きにしても美しく体裁の整ったものが多く、こんな字を書くことが「教養」でまた「外交力」でもあったことを思うと興味深い。飾り字の凝った印なども見る目で見れば佳いもので、戦争(Guerre)の文字が美しい。しかしそうでなければ、例えば「せんそうだいじん」等と子供に書かせれば、それはまさしく本質を炙り出すようにも思われる。つまり、美しく格式ばった書体を用いなければ、その程度のものという事ではないだろうか。逆に言えば、そのような形で正統性を粉飾さえすれば、それが十二分に通った子供っぽい時代であったと言う事ができるだろう。
(同様に今の私達も、世紀を経て後世から見れば子供っぽいと言われることだろう。そしてそれはそうあるべきだ。)
ところで、昼食の際に各地の日本食の話題などに及んだのだけれど、ロンドンにてスシを食したところ、それは不味くよろしくなかったのことだった。私もこちらに来た当初は、日本食レストランの多さにまずは驚き、そして嬉しく感じ、後に質の悪さに憤り、と一通り経験してきた後に思うのだが、論点は二つある。
1. もしプロモーションの事を思うならば、なによりこの数の多さによってまずは大いに担保されるものがあることを忘れてはいけない。つまり、仮に不味いレストランにあたったとしても、今の欧州の人達はもはや「スシが不味い」等とは思わず、このレストランは外れだった、と普通に思うだけだろう。ならばどんどん増え続ける「日本食」レストラン(多くは「スシ」と「マキ」と焼き鳥)、宣伝に大いに役立ってくれるのをありがたく思いこそすれ、無暗に批判するにはあたらない。伝統を重んじる〇〇と言う名の老舗の看板を揚げる、ということでもない限り、小うるさく言うことでもない。不味いピザにあたったからと言って、イタリア人の食生活を疑う人はいないだろう。
2. 二つ目はもう少し根源的なことだ。スシは別に私の持ち物ではない。ならばなぜ、盗まれたように感じるのだろうか。その理由はなんだろう。文化とは互いにコピーしながら発展し高めあうものだと当たり前のことをあえて言わねばならない程の、近世以降、我々の盗り盗られ合戦の激化が原因のひとつかも知れない。確かに盗まれたと思うなら守らねばならない、金が絡むなら猶更のことだ。
それで、直接の所有物でもなんでもない食文化に目くじらを立てるのは、国際社会における存在感のリソースの少なさが遠因の一かとも思う。正確に言うならば、少なく思ってる、ということだろう。少なくある誇れるもののうち、ひとつが、中でも大物がパクられても困るのだ。そういう思いではないだろうか。
そもそも島の中にいる人達の多くは、外の世界に等それ程興味もないのだ。それがある時、スシが流行ってるらしいと聞く。それも別の人達がコピーして売り出してるらしいと聞く。そこで慌てて保存し、保護しなければならないと叫ぶ。
もちろん保護するものはそれが出来る場においてすれば良い。個々の商店や会社の範囲でレシピを守ると言うならば、現行の社会の通念からも妥当なことだと思う。しかし、人類としては分かち与え合わなければならないものも、それは確実に存在する。資源がそうだし、文化だってそうだろう。一幅の絵は博物館で保護しておけばいいが、コピーは誰でも目にできるほうが良い。そうでなければ、せんそうだ。
私達が誇れるものとは(あるとすれば)人間性や優しさと言ったもの以外にない。寛容性も大事なことだ。持ってるおもちゃを分け与えられない子供から、成長すれば誰でも少しは大人にはなるものだ。少なくともそう思いたい。とりわけ終戦記念日には。
キーワード:外交史料館、戦争省、スシ、食文化、資源、共有、囲い込み、寛容性
外交文書だから、手書きにしても美しく体裁の整ったものが多く、こんな字を書くことが「教養」でまた「外交力」でもあったことを思うと興味深い。飾り字の凝った印なども見る目で見れば佳いもので、戦争(Guerre)の文字が美しい。しかしそうでなければ、例えば「せんそうだいじん」等と子供に書かせれば、それはまさしく本質を炙り出すようにも思われる。つまり、美しく格式ばった書体を用いなければ、その程度のものという事ではないだろうか。逆に言えば、そのような形で正統性を粉飾さえすれば、それが十二分に通った子供っぽい時代であったと言う事ができるだろう。
(同様に今の私達も、世紀を経て後世から見れば子供っぽいと言われることだろう。そしてそれはそうあるべきだ。)
ところで、昼食の際に各地の日本食の話題などに及んだのだけれど、ロンドンにてスシを食したところ、それは不味くよろしくなかったのことだった。私もこちらに来た当初は、日本食レストランの多さにまずは驚き、そして嬉しく感じ、後に質の悪さに憤り、と一通り経験してきた後に思うのだが、論点は二つある。
1. もしプロモーションの事を思うならば、なによりこの数の多さによってまずは大いに担保されるものがあることを忘れてはいけない。つまり、仮に不味いレストランにあたったとしても、今の欧州の人達はもはや「スシが不味い」等とは思わず、このレストランは外れだった、と普通に思うだけだろう。ならばどんどん増え続ける「日本食」レストラン(多くは「スシ」と「マキ」と焼き鳥)、宣伝に大いに役立ってくれるのをありがたく思いこそすれ、無暗に批判するにはあたらない。伝統を重んじる〇〇と言う名の老舗の看板を揚げる、ということでもない限り、小うるさく言うことでもない。不味いピザにあたったからと言って、イタリア人の食生活を疑う人はいないだろう。
2. 二つ目はもう少し根源的なことだ。スシは別に私の持ち物ではない。ならばなぜ、盗まれたように感じるのだろうか。その理由はなんだろう。文化とは互いにコピーしながら発展し高めあうものだと当たり前のことをあえて言わねばならない程の、近世以降、我々の盗り盗られ合戦の激化が原因のひとつかも知れない。確かに盗まれたと思うなら守らねばならない、金が絡むなら猶更のことだ。
それで、直接の所有物でもなんでもない食文化に目くじらを立てるのは、国際社会における存在感のリソースの少なさが遠因の一かとも思う。正確に言うならば、少なく思ってる、ということだろう。少なくある誇れるもののうち、ひとつが、中でも大物がパクられても困るのだ。そういう思いではないだろうか。
そもそも島の中にいる人達の多くは、外の世界に等それ程興味もないのだ。それがある時、スシが流行ってるらしいと聞く。それも別の人達がコピーして売り出してるらしいと聞く。そこで慌てて保存し、保護しなければならないと叫ぶ。
もちろん保護するものはそれが出来る場においてすれば良い。個々の商店や会社の範囲でレシピを守ると言うならば、現行の社会の通念からも妥当なことだと思う。しかし、人類としては分かち与え合わなければならないものも、それは確実に存在する。資源がそうだし、文化だってそうだろう。一幅の絵は博物館で保護しておけばいいが、コピーは誰でも目にできるほうが良い。そうでなければ、せんそうだ。
私達が誇れるものとは(あるとすれば)人間性や優しさと言ったもの以外にない。寛容性も大事なことだ。持ってるおもちゃを分け与えられない子供から、成長すれば誰でも少しは大人にはなるものだ。少なくともそう思いたい。とりわけ終戦記念日には。
キーワード:外交史料館、戦争省、スシ、食文化、資源、共有、囲い込み、寛容性
- 関連記事