第4986猫(人間の進歩と猫は世界を救うか) - 5000夜(文章ノート)
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第4986猫(人間の進歩と猫は世界を救うか)

ところで私は、猫が好きで猫が嫌いだ。論理が破綻しているようだからもう一度書くけれど、猫が好きででも嫌いだ。正確に言えば、猫は当然かわいいけれど、愛玩動物という存在自体に時にやるせない気持ちになる。これがもし、自らの意志で自分で選んで得たものならば、特になにも思わない可能性は高いだろう。古今東西を問わず多くの芸術家・文人等がしてきたように、大層かわいがることだと思う。谷崎・漱石は言うに及ばず、今なら村上春樹、古くはユーゴーやヘミングウェイ、皆猫が好きだ。自由気ままに生きているように見えるし、エレガントで何より美しい。

ところが連れがもともと持っていた猫ならどうだろう(良くあるパターンだ、独身の女性は猫を飼うものだ)。もちろん男女が逆でもいいし、同性同士だって構わないのだが、いずれにしても猫がついてくる場合だ。その際は、私達の間柄の関係の変化にしたがって、受容の感じも異なってくる。初めはもちろん文句なんか言わない。むしろ、まあかわいい猫ですね、と賞賛を送るのが筋だろう。猫は犬よりは手がかからず、それほど邪魔になるものでもなく、ここは猫好きを訴えた方が今後のためにもなにかと得策だ。たとえアレルギーがあって一年のうち一月ほどは喘息気味であったとしても、そんなことは大したことではない。少なくとも、そういう素振りを見せずには折角の縁も台無しになってしまう。

ただ、慣れてくればそれも煩わしく感じることもあるだろう。なにしろ奴らは何もしない。日がな寝てるだけで愛情をたっぷり受けるのだから、時に嫉妬を感じることさえある。もっとも私はトイレ掃除なんかは一切しないし、餌を時折買うだけなのだが、それでも面倒な時もある。最悪なのは旅行などに出る時で、その度に誰に預けるやら餌や寝床を運びこむとか(爪研ぎまで!)いちいち大事だ。どうして自分の身一つで身軽に旅立てないのだろう?自由とは何か?

そうでなくとも「動物愛護」などを声高に叫ばれると、どの口で言うのだろうと思う。どうしてそこに依怙贔屓があるのか。そもそも彼らが独りで生きる道を絶ったうえでかわいがるって何だろう。去勢をし、いつまでも子猫のままでそれは確かにかわいいだろう。そうしなければ彼らはその本能により辛い思いをするのだろうし。いずれにしても家猫はもう野生には戻らない。ペット産業は産業として成り立つのが現代で、それに人間と家畜との関係のその歴史は長いのだ。動物好きに悪い人はいないなんて聞くと悪い冗談だと吹き出してしまうが、ならば、少なくともその身勝手さをわかって引き受けて欲しいと思う。つまり、私は生きてるぬいぐるみが欲しいのだと、生きてるおもちゃが欲しいのだと白状すれば良い。おもちゃだけれど、生き物だからその分大事にはします、と言うのなら聞く耳も持てると言うものだ。家族の一員だなんだと下手な言い訳をするよりむしろ立派だと思う。

ただ思う。私達人間はそもそも自然な存在ではない。少なくとも田畑を耕し始めて以来、私達は決して自然に生きているわけではない。時折ルソーのように、自然に帰りたい人達とはいつでもいるけれど、裏をかえせばそれは私達の存在が自然ではないことを示している。社会の善悪、大きな格差と不平等、それらすべては私達の私達性にあるのであって、またそれは弱者や病人を助ける「自然ではない」一面もあわせもってる。そう考えれば、「不自然な猫」の存在など取るに足りないのかも知れない。

そうでなければ、狩猟採集生活に戻るしかないので、大掛かりな社会保障や病院はなりたたない。それで、それでも戻りたいと思うことがあるだろうか。ハンターは厳しくも美しい存在かも知れないが、よそに農耕の民がいれば確実に負けてしまう。弓が実は鋤や鎌に敵わないのは歴史が証明してる。アイヌやネイティブアメリカンの例を持ちだすまでもなく、狩猟採集民は農耕民族には獰猛さもカロリーも負けているのだ。

そしてそんな私達の不自然さも、長い目で見ればもしかすると自然の一部なのかも知れない。なるべくして進化したのだから。それでいずれ人工知能が登場して、仮に我々が淘汰される等ということがあったとしても、それもなるべくしてなるだけのことなのかも知れないとは思う。あるいは猫のように生き延びる手もあるのか。ならば、今のうちに学んでおくのも良いのかも知れない。爪研ぎはほどほどにして、あとは大人しくしていようか。もっとも、身なりには相当気を付けなければならないだろうが。

キーワード:猫、動物愛護、狩猟採集、農耕、ルソー、retour à la nature、AI、ペット産業、愛玩動物。
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