第4987色(土地の感じと彼の地の感じ)
土地の感じと言うが、此の地と彼の地は違うだろうと言う人々は(それも数多く)いるだろう。私もそれはそう思う。それは違うのだ。土の色が異なるし、木々の緑も違う。私達は伝統的に淡い色調を好むけれど、それでは物足りぬという人々は確かに存在する。
私は淡い色が好きだ。日本画の岩絵の具の色が好きだ。桜貝の淡い色味は、決して成就し得なかった若き日の恋物語などを重ねてみればそのまま涙を誘う程だ。青とも碧とも分かち難い浅葱の色をした涼やかな色調は、夏の日の想い出であり七月の夕べには入道雲がいずる。蚊遣りの豚に線香を入れねばならないが、それでなくば蚊帳を吊り、日が落ちてからは線香花火をするのも一興だ。若き頃は友や恋人と、老いてのちは孫とでもするが良い。
それらを否定することは我を失うことではないか。我彼を区別しないということは、誰でもないと言う事にしかならない。誰でもなくなることを屈託なく受け入れられる人などそうはいなかろう。
そのならいで言わば日の丸は清かで美しく、あの全き単純性には感服さえする。君が代の重厚さと荘厳さとはどうだろう。巷によくある軍歌由来の軽薄さ等問題にならないではないか。
しかし。
(深く比べもせずに)日本が好きだと(特に大声で)言う人達には言問いてみたい。例えばアフリカは暑く土は赤く緑も濃い。インフラが整っていないから町はゴミだらけで水はけも悪い。安い米の導入でカロリーは摂れるようになってきたから食べられるが、味付けは化学調味料で(マギーブイヨンの類)濃いものの繊細なものではない。肉や魚は高いから、ときに蛋白源として芋虫を食す。それで?何か問題が?
彼らが国を離れたとして、それらすべてを懐かしく思い出さないなんてことがあるだろうか。具体的な現実問題は勿論ある。つまりどこにでもあるように。そうでなければ、風の匂いや土の感覚を懐かしく思い出さないなんてことがあるだろうか。母の言葉を思い出さぬなんてことがあるだろうか。幼少の頃より慣れ親しんだ味がたとえマギーの味であっても(それ自体は別の問題として論じて然るべきかも知れないが)、それを懐かしく思わないなんてことがあるだろうか。緑濃き暮れなずむ赤土のサッカーグラウンドで、泥だらけになりながら球が見えなくなるまで遊んでいたことを思わぬなんてことがあるだろうか。
ところで多くの留学生を見ていて気付くことは、到着した当初では「私の国ではこうするのに」と言う人の多いことだ。確かに良し悪しはどこにでもあるが、多くの場合それは其の人自身の現地社会への適応の難しさに由来しているのも明らかだ。言葉の不自由さが壁を分厚くする。中にはとりわけ出来る例外的な人もいて、見ていれば友人も多く発言力もあり、より自由なのがわかる。闇雲な批判は影をひそめ、もう少し公正な視点を持つようにもなる。私達のコミュニケーションは(今のところは)言葉を媒介にせざるを得ないので、その能力の多寡によってヒエラルキーが生じてしまうと言っても良い位だ。これはこれとして具体的な問題として対処するしかない。
そのようにして考えてみると、我々は同じようで異なり(とりわけ言葉が)、また違うようで同じと言うしかないのかも知れない。そしてそのどちらに重きを置くのかは(あくまで流動する)視点による。私とあなたは違うけれども、私とあなたは同じですと言うのは決して矛盾ではない。
追記(2017/08/03):「アフリカ」とひとまとめにし過ぎたきらいあり。反省。具体的には西アフリカのセネガルやブルキナファソの郊外あたりをイメージしていた。
キーワード:言語教育、アシミレーション、インテグレーション、同化政策(の是非)、バベルの塔。
私は淡い色が好きだ。日本画の岩絵の具の色が好きだ。桜貝の淡い色味は、決して成就し得なかった若き日の恋物語などを重ねてみればそのまま涙を誘う程だ。青とも碧とも分かち難い浅葱の色をした涼やかな色調は、夏の日の想い出であり七月の夕べには入道雲がいずる。蚊遣りの豚に線香を入れねばならないが、それでなくば蚊帳を吊り、日が落ちてからは線香花火をするのも一興だ。若き頃は友や恋人と、老いてのちは孫とでもするが良い。
それらを否定することは我を失うことではないか。我彼を区別しないということは、誰でもないと言う事にしかならない。誰でもなくなることを屈託なく受け入れられる人などそうはいなかろう。
そのならいで言わば日の丸は清かで美しく、あの全き単純性には感服さえする。君が代の重厚さと荘厳さとはどうだろう。巷によくある軍歌由来の軽薄さ等問題にならないではないか。
しかし。
(深く比べもせずに)日本が好きだと(特に大声で)言う人達には言問いてみたい。例えばアフリカは暑く土は赤く緑も濃い。インフラが整っていないから町はゴミだらけで水はけも悪い。安い米の導入でカロリーは摂れるようになってきたから食べられるが、味付けは化学調味料で(マギーブイヨンの類)濃いものの繊細なものではない。肉や魚は高いから、ときに蛋白源として芋虫を食す。それで?何か問題が?
彼らが国を離れたとして、それらすべてを懐かしく思い出さないなんてことがあるだろうか。具体的な現実問題は勿論ある。つまりどこにでもあるように。そうでなければ、風の匂いや土の感覚を懐かしく思い出さないなんてことがあるだろうか。母の言葉を思い出さぬなんてことがあるだろうか。幼少の頃より慣れ親しんだ味がたとえマギーの味であっても(それ自体は別の問題として論じて然るべきかも知れないが)、それを懐かしく思わないなんてことがあるだろうか。緑濃き暮れなずむ赤土のサッカーグラウンドで、泥だらけになりながら球が見えなくなるまで遊んでいたことを思わぬなんてことがあるだろうか。
ところで多くの留学生を見ていて気付くことは、到着した当初では「私の国ではこうするのに」と言う人の多いことだ。確かに良し悪しはどこにでもあるが、多くの場合それは其の人自身の現地社会への適応の難しさに由来しているのも明らかだ。言葉の不自由さが壁を分厚くする。中にはとりわけ出来る例外的な人もいて、見ていれば友人も多く発言力もあり、より自由なのがわかる。闇雲な批判は影をひそめ、もう少し公正な視点を持つようにもなる。私達のコミュニケーションは(今のところは)言葉を媒介にせざるを得ないので、その能力の多寡によってヒエラルキーが生じてしまうと言っても良い位だ。これはこれとして具体的な問題として対処するしかない。
そのようにして考えてみると、我々は同じようで異なり(とりわけ言葉が)、また違うようで同じと言うしかないのかも知れない。そしてそのどちらに重きを置くのかは(あくまで流動する)視点による。私とあなたは違うけれども、私とあなたは同じですと言うのは決して矛盾ではない。
追記(2017/08/03):「アフリカ」とひとまとめにし過ぎたきらいあり。反省。具体的には西アフリカのセネガルやブルキナファソの郊外あたりをイメージしていた。
キーワード:言語教育、アシミレーション、インテグレーション、同化政策(の是非)、バベルの塔。
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