第二五三稿(免許点数に関する「知恵」について)
渡仏当初は渡航直前に運転免許試験場へ行って国際免許を作ってもらったものの、有効期限は一年のみであるし、なにやら法律関連の文書にあたってみれば、お国の免許+法定翻訳で運転できないこともないとの由。そもそも学生の身分であったので、書き換えができずそれ以外に方法がなかったのだけれども、本当にそれで良かったのかどうかはあまりわからない。一度、進入禁止の場所を張っていたパトカーに見事に捕まって(日本の警察みたいだ、普通は殆ど待ち伏せなどしてない)、叱られたけれど、書類はなんだかわけがわからないというような感じで結局見逃してくれた。外国人ならではと想像する。いずれにしても、後にスピード違反取締のレーダーの洗礼を受けるに至っても、免許の点が関係ない、という事実は大変ありがたいことだった。
もしかすると関係はなくはないのかも知れない。けれど、そもそも免許システムが異なるし(違反の点も日本は加点式で、仏では減点式)、連動させて適用なんてしてるはずがない。連動させるシステムを構築すること自体は可能だろうけれど、手間暇をかけて敢えてする必要も今のところはないだろう。
罰金に関しては、車両登録の関係で住所も氏名も当局に押さえられているのだから、素直に支払ったほうが良い。ただしこれも、長居する気がないのなら、国へ帰ってしまえば立ち消えになるのではないかと思われる。もちろん、「市民」としての務めを果たさねば、と「良心」を働かすこともできるけれど、本音を言えば保身のためだ。そもそもどこの「市民」かと問わねばならない。そして感じることはどちらかと言えば、異なるシステムを比べ、そしてその間を行き来してみれば、そういった社会の枠組みというものも所詮は作られたものだと実感せずにはいられない。一時的とは言い切れない程は積み重ねられて重みがあるけれど、かといって恒久的なものでもないことも確かだ。
だから、うっかりレーダーを光らせて、「ウヒョー、減点なしだぜ!」等とヘルメットの中で叫ぶ位には自由を感じることはできても、二週間後には自宅に罰金払ってね封書が届いて肩を落とすことになると、その自由の二義性になんとなく落ち着かない気持ちにはなる。究極的にはどちらの側につくのか、という問題なのかも知れないが、それを突き詰めすぎれば原理的になってしまう。立派な人ばかりの社会であれば、その良い市民でいることに吝かではないけれど、まあそんなことはない。そもそも私も立派ではない。
その後最終的には日本の免許を差し出し、こちらの免許に書き換えたので、今ではすっかり点に支配される運転になってしまった。持ち点15点※で始めるのだけど、早速14点だ。良いペースじゃないか。とは言え、実際には二年程で一点減点なので、まだまだ生き延びられると思う。基本優良運転の私だから、いずれ点も回復するだろう。
※12点の間違い。日本のシステムと混乱してしまった。(2017/04/30追記)
ちなみにレーダーの直前には(一応)必ず警告のパネルが設置されているのだけれど、2011年の閣僚間決議によって取り除かれることになっていた。必ずしも良く見えるようになんか設置されてなかったから見逃すこともあるけれど、それはないよりはあった方が(少なくとも個人の財布には)いい。取り締まりたい側としては抜き打ちにしなければ面白くないわけで、だからそんなことになったのだが、反発が多大で結局二年後にまた設置するということになった。今のところは設置されている。ただレーダー自体も移動式になったり、特定区間の平均速度を検出したり、新型の覆面パトカーを導入したりとイタチごっこは進化をやめない。罰金はとればとる程良い歳入になるのだから、進化させない理由もないのだ。そして基本的に伝統的に、ライダーとポリスは良き(?)ライバルなのだ。

「さて、奴さんがエンジンオシャカにする前に4速に入れるか」
(青のBMWは交通憲兵の車両。R1100RTか。)
ところで先日、古い車両の交通規制が布かれてから初めて市内へ突入した。またしても罰金を喰らうのは嫌なので、控えていたのだけれど大使館に用事があって仕方なかった。地下鉄などで行く気にはならない。そこまで良き市民意識も持っていないのだ。とは言え事前に、
「そんなの誰も守ってない」
「どうやって検問するんだ」
「オレのは新型だけど(許可を示す)ラベルも貼ってないよ」
「私も初めは様子見てたけど皆乗ってるからいいかなって」
等々聞いていた。そもそも二輪連盟は、無視するよう呼び掛けてるし、いくら市の決定に反対の立場とは言え、それなりに公共性のある連盟がそんな事言っていいのか?と思うのが日本的感覚だろう。でも、それが事実なのだ。
私のデビル管はかなり「イイ」音が出るし、80年代耐久レーサー風の赤いフルカウルは否が応でも目立つから、心配ではあったけれど仰せに従い、市の規制は無視して乗りこんだ。結果、周りを見渡せば確かに古そうなスクーターやバイクは走ってた。つい、
「へへっお前のも古いな」
「まあな、そっちもイカスねヴィンテージ」
とか脳内で妄想してしまう。大統領選挙のからみで、あちこちに警察はいるのだが、確かに古い車両などに構ってる様子は一切なかった。対テロ警戒の方が目下の任務だろう。私もしばらく走ればもうそういうことかと得心がいって、もうつまらぬ心配などはしなくなっていた。むしろ久しぶりに走った環状道路の「車線間走行」の方が、心臓にピリピリくる。

「通れる、通れる」
「180!こいつらバカか?」
「俺たち全員死ぬぞ!」
もちろん実際には180kmhなんかで走りはしないけど、相変わらず私はどのライダーにもついていけなかった。(渋滞の中)60キロ位で流してるのだとは思う。それでも私にとっては本能が拒絶するスピードだ。古いインフラの環状道路、渋滞の車線間の隙間なんてたいしてないのだ。二車線しかない首都高の方がよほど広い。
車線変更してくる車がいるから、下手に前のライダーと間をあけない方が良い、というのは理屈ではわかるけれど、そして努力もするのだが、やはり後ろからくるライダーに譲りながら譲りながらの走行となった。恐怖心の閾値が違うんじゃないだろうか。
ときに、一年前に免許を取ったばかりのピエールが、免許の点があと1点しかないと先日聞いてびっくりしたが、そう考えるとやはりそうなのかも知れない。15点中14点12点中11点を既に失ったとはなんて豪気なんだ!と感嘆したのだが、よくよく話を聞いてみると実は違うらしい。
15点中15点12点中12点、きっちり失くしたのを1点買ってしのいだと言う。
わけがわからなかったのだけど、こういうことだ。レーダーで違反をとられた場合、後日例の罰金はらってね通知が来るわけだが、その際に「違反を認めません」というオプションも一緒についてくる。確かに私の時もそうだった。そしてその場合、理由を記載せねばならないのだけど、中に「人に貸してた」という選択肢がある。それを選ぶ際に誰に貸していたのか記載する欄がある。
そうつまり、(点は買えなくもないのである。)相場もある程度あるらしい。点2万円と言ったところだろうか。こういうことを言うと、いわゆる「良識のある市民」の人々は眉をひそめるかも知れない。でも、繰り返すようだけれど、ある社会において何が正統で何が違反なのかは自明のこととして決まっているわけではないのだ。少なくともその決定に対して、従うかそうでないかは自分の意志で決めることができる。そもそも決定に対して意見することもできるのが筋だ。また一度決まったことには従え、と強制することも状況によっては横暴に過ぎることも少なくない。人種や文化・宗教が均一でない社会においては尚更だ。多数決が必ずしも善であるとは言えないのだから。
だから、こんなふうにある意味グレイな選択をして事なきを得るのも、一つの方便であり市民の生きる知恵の範疇でもあると私は考えるに至った。もちろん私が警察官であれば文句をいうだろう。でも私はその立場ではないし、また現状の国家というものが必ずしも絶対善などでは決してないことを思えば、これはかわいいチャッカリだと思うほどだ。片や免許を失わず、片やポケットマネーを得、そして国家に罰金自体はきちんと支払われる。いずれにしてもこの件では、目を開かれる思いがしたものだ。別に人に勧めるものでもないが、むしろ目配せをするような類のことで、そして「考え方」の訓練であるとは言ってもいいと思う。
もしかすると関係はなくはないのかも知れない。けれど、そもそも免許システムが異なるし(違反の点も日本は加点式で、仏では減点式)、連動させて適用なんてしてるはずがない。連動させるシステムを構築すること自体は可能だろうけれど、手間暇をかけて敢えてする必要も今のところはないだろう。
罰金に関しては、車両登録の関係で住所も氏名も当局に押さえられているのだから、素直に支払ったほうが良い。ただしこれも、長居する気がないのなら、国へ帰ってしまえば立ち消えになるのではないかと思われる。もちろん、「市民」としての務めを果たさねば、と「良心」を働かすこともできるけれど、本音を言えば保身のためだ。そもそもどこの「市民」かと問わねばならない。そして感じることはどちらかと言えば、異なるシステムを比べ、そしてその間を行き来してみれば、そういった社会の枠組みというものも所詮は作られたものだと実感せずにはいられない。一時的とは言い切れない程は積み重ねられて重みがあるけれど、かといって恒久的なものでもないことも確かだ。
だから、うっかりレーダーを光らせて、「ウヒョー、減点なしだぜ!」等とヘルメットの中で叫ぶ位には自由を感じることはできても、二週間後には自宅に罰金払ってね封書が届いて肩を落とすことになると、その自由の二義性になんとなく落ち着かない気持ちにはなる。究極的にはどちらの側につくのか、という問題なのかも知れないが、それを突き詰めすぎれば原理的になってしまう。立派な人ばかりの社会であれば、その良い市民でいることに吝かではないけれど、まあそんなことはない。そもそも私も立派ではない。
その後最終的には日本の免許を差し出し、こちらの免許に書き換えたので、今ではすっかり点に支配される運転になってしまった。持ち点15点※で始めるのだけど、早速14点だ。良いペースじゃないか。とは言え、実際には二年程で一点減点なので、まだまだ生き延びられると思う。基本優良運転の私だから、いずれ点も回復するだろう。
※12点の間違い。日本のシステムと混乱してしまった。(2017/04/30追記)
ちなみにレーダーの直前には(一応)必ず警告のパネルが設置されているのだけれど、2011年の閣僚間決議によって取り除かれることになっていた。必ずしも良く見えるようになんか設置されてなかったから見逃すこともあるけれど、それはないよりはあった方が(少なくとも個人の財布には)いい。取り締まりたい側としては抜き打ちにしなければ面白くないわけで、だからそんなことになったのだが、反発が多大で結局二年後にまた設置するということになった。今のところは設置されている。ただレーダー自体も移動式になったり、特定区間の平均速度を検出したり、新型の覆面パトカーを導入したりとイタチごっこは進化をやめない。罰金はとればとる程良い歳入になるのだから、進化させない理由もないのだ。そして基本的に伝統的に、ライダーとポリスは良き(?)ライバルなのだ。

「さて、奴さんがエンジンオシャカにする前に4速に入れるか」
(青のBMWは交通憲兵の車両。R1100RTか。)
ところで先日、古い車両の交通規制が布かれてから初めて市内へ突入した。またしても罰金を喰らうのは嫌なので、控えていたのだけれど大使館に用事があって仕方なかった。地下鉄などで行く気にはならない。そこまで良き市民意識も持っていないのだ。とは言え事前に、
「そんなの誰も守ってない」
「どうやって検問するんだ」
「オレのは新型だけど(許可を示す)ラベルも貼ってないよ」
「私も初めは様子見てたけど皆乗ってるからいいかなって」
等々聞いていた。そもそも二輪連盟は、無視するよう呼び掛けてるし、いくら市の決定に反対の立場とは言え、それなりに公共性のある連盟がそんな事言っていいのか?と思うのが日本的感覚だろう。でも、それが事実なのだ。
私のデビル管はかなり「イイ」音が出るし、80年代耐久レーサー風の赤いフルカウルは否が応でも目立つから、心配ではあったけれど仰せに従い、市の規制は無視して乗りこんだ。結果、周りを見渡せば確かに古そうなスクーターやバイクは走ってた。つい、
「へへっお前のも古いな」
「まあな、そっちもイカスねヴィンテージ」
とか脳内で妄想してしまう。大統領選挙のからみで、あちこちに警察はいるのだが、確かに古い車両などに構ってる様子は一切なかった。対テロ警戒の方が目下の任務だろう。私もしばらく走ればもうそういうことかと得心がいって、もうつまらぬ心配などはしなくなっていた。むしろ久しぶりに走った環状道路の「車線間走行」の方が、心臓にピリピリくる。

「通れる、通れる」
「180!こいつらバカか?」
「俺たち全員死ぬぞ!」
もちろん実際には180kmhなんかで走りはしないけど、相変わらず私はどのライダーにもついていけなかった。(渋滞の中)60キロ位で流してるのだとは思う。それでも私にとっては本能が拒絶するスピードだ。古いインフラの環状道路、渋滞の車線間の隙間なんてたいしてないのだ。二車線しかない首都高の方がよほど広い。
車線変更してくる車がいるから、下手に前のライダーと間をあけない方が良い、というのは理屈ではわかるけれど、そして努力もするのだが、やはり後ろからくるライダーに譲りながら譲りながらの走行となった。恐怖心の閾値が違うんじゃないだろうか。
ときに、一年前に免許を取ったばかりのピエールが、免許の点があと1点しかないと先日聞いてびっくりしたが、そう考えるとやはりそうなのかも知れない。
わけがわからなかったのだけど、こういうことだ。レーダーで違反をとられた場合、後日例の罰金はらってね通知が来るわけだが、その際に「違反を認めません」というオプションも一緒についてくる。確かに私の時もそうだった。そしてその場合、理由を記載せねばならないのだけど、中に「人に貸してた」という選択肢がある。それを選ぶ際に誰に貸していたのか記載する欄がある。
そうつまり、(点は買えなくもないのである。)相場もある程度あるらしい。点2万円と言ったところだろうか。こういうことを言うと、いわゆる「良識のある市民」の人々は眉をひそめるかも知れない。でも、繰り返すようだけれど、ある社会において何が正統で何が違反なのかは自明のこととして決まっているわけではないのだ。少なくともその決定に対して、従うかそうでないかは自分の意志で決めることができる。そもそも決定に対して意見することもできるのが筋だ。また一度決まったことには従え、と強制することも状況によっては横暴に過ぎることも少なくない。人種や文化・宗教が均一でない社会においては尚更だ。多数決が必ずしも善であるとは言えないのだから。
だから、こんなふうにある意味グレイな選択をして事なきを得るのも、一つの方便であり市民の生きる知恵の範疇でもあると私は考えるに至った。もちろん私が警察官であれば文句をいうだろう。でも私はその立場ではないし、また現状の国家というものが必ずしも絶対善などでは決してないことを思えば、これはかわいいチャッカリだと思うほどだ。片や免許を失わず、片やポケットマネーを得、そして国家に罰金自体はきちんと支払われる。いずれにしてもこの件では、目を開かれる思いがしたものだ。別に人に勧めるものでもないが、むしろ目配せをするような類のことで、そして「考え方」の訓練であるとは言ってもいいと思う。