第4992自己批判(と逆「総括」)
機体にもヘルメットにもつけた日の丸、とりわけサイドカウルに貼り付けたのは、いかにも戦闘機然としていて「走る」時には「強くなった」ように思わせるものだった。渋滞ばかりの環状で車線間走行を強いられる時、日が落ちて視界も悪くそして寒く、冬は殆ど晴れ間もなくすべては灰色でカナシク、そんな時、かつての戦闘機乗りについ思いを馳せたりする。私は独りスタンドプレイをしているけれど、本当はこれこれのバックグラウンドがあり、歴史と伝統があり、いざとなれば友軍がくるはずだ。その暁には「チーム」の証をつけていなければならない。ここまでベタな妄想はしないまでも、異国の地で走る日の丸は、単純にカッコよく見えていたことは確かだ。
思えば、軍服もカッコよく見えるようにもなっていたし、これはやはり変化なのだろうと思う。変節とまではいかない。信条が変わったわけではないから。それに私が好きだったのは実は鳥肌実とかで、これはむしろカリカチュアとさえも言えない単なるパロディだろう。ただ、どこで線引きができるのかはよくわからない。恐らくご本人にもわからないのではないだろうか。その他、オーケン(筋肉少女帯)の特攻服とか、なんでも漢字であてるヤンキー文字とか。妙に惹かれてしまう。もっともこれらは単に個人的嗜好の範疇に過ぎないが、良く考えてみれば気取って変な横文字ばかりをつかう人々に反感があるのだろうと思う。
とは言え、この私だって見る人が見ればそう思われるのではないか。現に「西洋」に住まい「西洋語」を話し、家人も「西洋人」で、仮にそれだけの理由で気取ってると反感を抱かれたとしても驚きはしない。なぜならばそれはそういうものだからだ。つまり、明治以降、西洋から受けた影響とは決して軽んじられない程の量であり、今でも脈々と続く無用のヒエラルキーの形成にも多大に寄与している。そして普通に科学や哲学を学ぼうものなら、特に意識をせずとも即座にその影響の下に身を置くことになるし(本邦の哲学はわざわざ東洋哲学と言わねばならない)、むしろ意識をしないと言う事は無批判にそれを受け継ぎまた強化していくことに他ならない。
だからこれは、当時風の言い方をするならば「階級間闘争」の問題に属することなのかもしれない。私は横文字ばかりを深い考えもなくやたらと濫用するのが気に喰わず、またそんな私も所詮は力仕事などしない読書階級に過ぎないと煙たがられる。
ただ、そんな立場の違いとはいつでもあくまで相対的なのであって、仮に私が日の丸を付けていたのは有限期間だけで実は一年もしないうちに居心地が悪くなり剥がしてしまった、と言ったところで、本来左の人達は私の心の弱さを攻撃し自己批判を求めるかもしれないし、逆に日の丸の好きな人たちには売国奴呼ばわりされるかも知れない。つまり静的な座標上で何処かに定位されるにせよ、それは見る側によって無論左右する。そして私自身がどういう立場でどこに定位されるにせよ、それは大した問題ではないのだが、大事なことはそんな信条さえ心情によっていかようにも変化するということ自体にある。動的に、通時的に変化しうるという事が大事なのだ。
そしてもう一つの事は、わかりやすく言ってしまえば「弱い」人達には国家や伝統が必要なのだ、ということでもあるけれど、それを他所から批判しても恐らくほとんど何の役にも立たないことだろう。いやむしろ、役に立たない、と言うのはそれが悪だとの前提を下敷きにしている。むしろ、何が悪いの?と言われるだけのことではあるだろう。必要なのは、多分、実は、いや悪くないですよ?と答えることなのかも知れない。特攻服、カッコいいですもんねと。私の日の丸をつけたマシンも、少なくともその環境と条件の下ではカッコよかったのだ。
キーワード:日の丸、ナショナリズム、特攻服、自己批判、総括、売国奴、善悪の彼岸。
思えば、軍服もカッコよく見えるようにもなっていたし、これはやはり変化なのだろうと思う。変節とまではいかない。信条が変わったわけではないから。それに私が好きだったのは実は鳥肌実とかで、これはむしろカリカチュアとさえも言えない単なるパロディだろう。ただ、どこで線引きができるのかはよくわからない。恐らくご本人にもわからないのではないだろうか。その他、オーケン(筋肉少女帯)の特攻服とか、なんでも漢字であてるヤンキー文字とか。妙に惹かれてしまう。もっともこれらは単に個人的嗜好の範疇に過ぎないが、良く考えてみれば気取って変な横文字ばかりをつかう人々に反感があるのだろうと思う。
とは言え、この私だって見る人が見ればそう思われるのではないか。現に「西洋」に住まい「西洋語」を話し、家人も「西洋人」で、仮にそれだけの理由で気取ってると反感を抱かれたとしても驚きはしない。なぜならばそれはそういうものだからだ。つまり、明治以降、西洋から受けた影響とは決して軽んじられない程の量であり、今でも脈々と続く無用のヒエラルキーの形成にも多大に寄与している。そして普通に科学や哲学を学ぼうものなら、特に意識をせずとも即座にその影響の下に身を置くことになるし(本邦の哲学はわざわざ東洋哲学と言わねばならない)、むしろ意識をしないと言う事は無批判にそれを受け継ぎまた強化していくことに他ならない。
だからこれは、当時風の言い方をするならば「階級間闘争」の問題に属することなのかもしれない。私は横文字ばかりを深い考えもなくやたらと濫用するのが気に喰わず、またそんな私も所詮は力仕事などしない読書階級に過ぎないと煙たがられる。
ただ、そんな立場の違いとはいつでもあくまで相対的なのであって、仮に私が日の丸を付けていたのは有限期間だけで実は一年もしないうちに居心地が悪くなり剥がしてしまった、と言ったところで、本来左の人達は私の心の弱さを攻撃し自己批判を求めるかもしれないし、逆に日の丸の好きな人たちには売国奴呼ばわりされるかも知れない。つまり静的な座標上で何処かに定位されるにせよ、それは見る側によって無論左右する。そして私自身がどういう立場でどこに定位されるにせよ、それは大した問題ではないのだが、大事なことはそんな信条さえ心情によっていかようにも変化するということ自体にある。動的に、通時的に変化しうるという事が大事なのだ。
そしてもう一つの事は、わかりやすく言ってしまえば「弱い」人達には国家や伝統が必要なのだ、ということでもあるけれど、それを他所から批判しても恐らくほとんど何の役にも立たないことだろう。いやむしろ、役に立たない、と言うのはそれが悪だとの前提を下敷きにしている。むしろ、何が悪いの?と言われるだけのことではあるだろう。必要なのは、多分、実は、いや悪くないですよ?と答えることなのかも知れない。特攻服、カッコいいですもんねと。私の日の丸をつけたマシンも、少なくともその環境と条件の下ではカッコよかったのだ。
キーワード:日の丸、ナショナリズム、特攻服、自己批判、総括、売国奴、善悪の彼岸。
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