第4994サッカーと野球(侍ジャパンとは)
2017年の春、教育勅語がどうとか、WBCで侍ジャパンがどうとかで世間が姦しいけれど、私としてはなぜ「侍」に「ジャパン」が容易にくっつくのかの方に興味がある。パン屋を和菓子屋に置き換えたい人々が実際にいることに結構新鮮な驚きを禁じ得ないのに、侍にジャパンはなかなか剣呑ではないのか。暴論を承知で言うのなら、アメリカが大好きな右翼と言うのは存在するので、まあ似たようなものかも知れないと思ったりもする。
レッテル貼りについて多少の考察をしてきたけれど、野球はもちろんズバリ右側のスポーツだ。そしてその起源はベース・ボールなのだから、伝統がどうとか起源がどうとかはいつでも恣意的に選ばれてることも自明のことだろう。ところで、Jリーグというものが誕生した時以来(ここでもまたジャパンだ、彼らはジャパンジャパンと言うのが好きらしい。嗚呼クールジャパン万歳。)、国内的に見ればJリーガーとは長髪に茶髪がなにげにスタンダードだったから、明らかに野球選手とは趣を異にしていた。つまり、伝統的な(?)区分に従えば、ラフなスタイルに長髪やヒゲの選手たちはリベラルな側を体現していた。新しくて若く自由な雰囲気と言うわけだ。
ところがサッカーは国際的なものだから、対外的にはそれこそジャパン一色に染まる。左側に位置していたものがいとも簡単に正反対にシフトする。そしてワールドカップが開催される四年に一度、それは頂点に達する。色とりどりのバナーが咲き乱れ人々は熱狂するのだ。かつて誰かが言っていたことだが、ヨーロッパのサッカーファンが羨ましいと。互いにナショナリズム全開で応援しまくるけれど、各々がそれなりに強国で、それが故に後ろめたい想いから自由であるように見えるとのことだった。
私が中高の頃、年に一度体育祭と言うのがあって一学年四クラス、クラス対抗で盛り上がったのを思い出す。学力別のクラス等ではなかったから、その間にヒエラルキーなどは存在せず、確かに純粋に競争を愉しむかごときの様相を呈していた。きっとそういうことが言いたかったのだろう。なにしろ人々は競争が大好物なのだから。
ところで実際には話はそう簡単ではない。私の現在いるここ仏国では、アルジェリア戦などある夜には相当嫌な思いをしてしまう。勝っても負けても困るのだ。勝てば赤緑に三日月を染めぬいた国旗を掲げ、クラクションを鳴らしながら街を練り走る彼らはいかにも騒々しく、またそれを苦々しく思う仏人達の気持ちが伝染するし、負ければ負けたでザマアミロと内心思っている人々の気持ちが逆に心を蝕んでくる。いずれにしても「人類愛」なんて高尚なものとは程遠く、いかにも疲れてしまう。つい深刻になってしまう位のものだ。
恐らく、私達の本質なのだろう。部族部族にわかれて戦うのは。そしてその頸木から逃れるのは本当に困難だ。侍ジャパンなんてごった煮を言いながら無邪気に盛り上がれる人々を、かわいいものだと思える位には世界が発達するのを待つしかないのかも知れない。軽く千年位かかるだろうが、希望はないわけではない。各地がネットで繋がり鮮明なイメージを共有できつつあることの意義が今後問われるだろう。
キーワード:野球、サッカー、ワールドカップ、ナショナリズム、移民、情報インフラ。
レッテル貼りについて多少の考察をしてきたけれど、野球はもちろんズバリ右側のスポーツだ。そしてその起源はベース・ボールなのだから、伝統がどうとか起源がどうとかはいつでも恣意的に選ばれてることも自明のことだろう。ところで、Jリーグというものが誕生した時以来(ここでもまたジャパンだ、彼らはジャパンジャパンと言うのが好きらしい。嗚呼クールジャパン万歳。)、国内的に見ればJリーガーとは長髪に茶髪がなにげにスタンダードだったから、明らかに野球選手とは趣を異にしていた。つまり、伝統的な(?)区分に従えば、ラフなスタイルに長髪やヒゲの選手たちはリベラルな側を体現していた。新しくて若く自由な雰囲気と言うわけだ。
ところがサッカーは国際的なものだから、対外的にはそれこそジャパン一色に染まる。左側に位置していたものがいとも簡単に正反対にシフトする。そしてワールドカップが開催される四年に一度、それは頂点に達する。色とりどりのバナーが咲き乱れ人々は熱狂するのだ。かつて誰かが言っていたことだが、ヨーロッパのサッカーファンが羨ましいと。互いにナショナリズム全開で応援しまくるけれど、各々がそれなりに強国で、それが故に後ろめたい想いから自由であるように見えるとのことだった。
私が中高の頃、年に一度体育祭と言うのがあって一学年四クラス、クラス対抗で盛り上がったのを思い出す。学力別のクラス等ではなかったから、その間にヒエラルキーなどは存在せず、確かに純粋に競争を愉しむかごときの様相を呈していた。きっとそういうことが言いたかったのだろう。なにしろ人々は競争が大好物なのだから。
ところで実際には話はそう簡単ではない。私の現在いるここ仏国では、アルジェリア戦などある夜には相当嫌な思いをしてしまう。勝っても負けても困るのだ。勝てば赤緑に三日月を染めぬいた国旗を掲げ、クラクションを鳴らしながら街を練り走る彼らはいかにも騒々しく、またそれを苦々しく思う仏人達の気持ちが伝染するし、負ければ負けたでザマアミロと内心思っている人々の気持ちが逆に心を蝕んでくる。いずれにしても「人類愛」なんて高尚なものとは程遠く、いかにも疲れてしまう。つい深刻になってしまう位のものだ。
恐らく、私達の本質なのだろう。部族部族にわかれて戦うのは。そしてその頸木から逃れるのは本当に困難だ。侍ジャパンなんてごった煮を言いながら無邪気に盛り上がれる人々を、かわいいものだと思える位には世界が発達するのを待つしかないのかも知れない。軽く千年位かかるだろうが、希望はないわけではない。各地がネットで繋がり鮮明なイメージを共有できつつあることの意義が今後問われるだろう。
キーワード:野球、サッカー、ワールドカップ、ナショナリズム、移民、情報インフラ。
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