第二四二稿(Al Pasciaのダンヒル記事全訳その一) - スポンサー広告これはバイク(パイプ)ではない。

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第二四二稿(Al Pasciaのダンヒル記事全訳その一)

Al Pasciaの特集ページMOMENTSのダンヒルに関する記事を自身の勉強を兼ねてざっと訳したものです。
記事の権利は原著者に帰します。翻訳は私です。

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ダンヒルパイプ

狩りに出かけた折りにいくつかのパイプを失くしたプリンスオブウェールズは、誰か拾ったものがいないかどうか探そうとした。パイプの特徴はなんだったか。黒いステムの上部にインサートされていたホワイトスポットであった。1921年、ロンドンの新聞に掲載された告知ではメーカー名は伏せられていたものの、実際にはほとんどの読者には既に知られていたのでその必要もなかったのだ。以来そのパイプの有名さには、新たな証言が加わったこととなる。

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アルフレッド・ダンヒルが1912年に初めてホワイトスポットを入れるアイディアを得たのは、むしろ実用的な理由からだった。手作りのヴァルカナイトステムはあまりに完璧だったので、しばしばどちらの側を差し込むのかわからなかったのだ。その問題を解決するためにダンヒルは白いマークを入れることにした。いかにダンヒルがマーケティングに優れていたとは言え、その時にはそれがトレードマークたり得るとは思っていなかったに違いない。実際、1923年には商標権を巡って裁判所に行かなくてはならなくなったのだから。当時のダンヒルのホワイトスポットは、薄く丸い象牙のインレイだったが、今では質の良いアクリルで作られている。

ホワイトスポットの導入は、アルフレッド・ダンヒルの発明に秀でた技巧のひとつを示しているに過ぎない。数年の間に馬具の事業からパイプメーカーへと転身したことは、パイプ製作においてできる事をすべてを集めることに努めただけでなく、自身のアイディアを試したことを意味している。どれだけの試行錯誤がなされたか、あるいはそれらのいくつが不成功に終わったかは知られてないが、ともかくもいくつかの成功例が伝説的なダンヒルパイプの誕生に寄与したのである。

20世紀初頭では、多くのパイプは数年しか持たなかった。なぜなら内部が詰まってしまったからである。1911年、ダンヒルはこの問題に解法を発見するが、それは内部に交換可能なアルミのインナーチューブを入れることであった。このようにして、パイプは生涯を通じ綺麗な状態を保つことができるようになった。この方法は、パイプクリーナーが普及するようになる1930年代まで使われた。

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ロンドンでのビジネスの初期、アルフレッド・ダンヒルはヴァルカナイトステムしか作っていなかった。フランスのサン・クロードから半完成のボウルを購入し、それをロンドンにて職人に仕上げさせていた。しかしながら、ブライヤーはまず「リフィニッシュ」される必要があった。フランスから届いた部材は、まだ樹液を含んでおり、それがタンニンの味を煙に加え、またブレイクインを難しくしていた。オイルの中でキュアリングすることでその問題をクリアできたが、他方オイルは微細な気孔を塞ぎ、それが喫煙の際にしみ出てくるので、不快な効果をもたらしてしまうものでもあった。どのようにしてそれを防げるだろう?オイルによるキュアリングとリフィニッシュついて1913年までに特許(№2157)を取っていたのが本当であるならば、ダンヒルは1910年には既にそれについて考察していたはずだ。彼の機械工作もまた、なんらかの意味において「ファースト・スモーク」の状態を再現していた。オイルを取り除くが、それは徐々にしみ出してくるものだったからだ。オイルキュアリングについては多くの事が言われている。第一に、特許を取った製作過程(と予備的オイルバス)の詳細は、決して明かされることがなかった。なにより、彼らも何度も変更している。第二に、ダンヒルによればこの方法はポジティブでしかないはずだったが、必ずしも全ての人が好んだ(好む)わけではなかった。それは、テクニックと喫煙テイストにおける時代の変化に従い近年においてとりわけそうで、多くの人々が他の方法、樹液を取り除くのにもっと自然な方法を好むようになってきている。しかしながら、オイルキュアリングは英国のクラッシックパイプの全てのバリエーションにおいて典型的なのであり(他の国においてはパイプ製作者にとっても)、今でも相当数のそれを信奉するスモーカー達がいることも確かなのである。

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ひとたびブライヤーの孔がきれいにされると、パイプのシェイプは改善されなければならず、特にステムとシャンクの連続性および全ての細部が検討され、それらは全体としてバランスをとることとなる。最終工程は木の表面処理で、オブジェとしてのパイプの外観と性格を決定づけるものである。いくつかのチャラタンモデルを除きフランスから供給を受けていた初期、ダンヒルはニスを分厚くかけたパイプは美しくも実用的でもないと気付いていた。自身の工場を稼働するやいやなや(1910)、異なった方法の考察も始めていた。

最初の方法は、ブリュイェール(仏語のブライヤー)と呼ばれる軽く効果的な仕上げを作り出した。木をニスがけするかわりに、杢目を強調する深赤の染料にてコーティングされワックスがけされた。二番目の方法は多くの試作の後に導入された。サンドブラストは1870年から、曇りガラスを作るためや、鉄の部品やビルのファサードを徹底的に綺麗にするために使われていた。しかしアルフレッド・ダンヒルを除いて誰も、その手法を木に応用する等という思い切ったことは考えつかなかったのである。このようにして、1917年、シェルという新しい驚異的な仕上げを取入れた。サンドブラストによって木の柔らかい部分が削られ、染よりももっとはっきりと、凸凹の美しいキアロスクーロ(明暗法)によって杢目を際立たせたのである。シェルの語は、貝殻に見られるようなパターンのレリーフのタイプを言うのに使われるが、「shriveled(しぼんだ)」をも意味する。ブライヤーの欠点を取り除くことができるため、質の悪いパイプをこの方法で処理すると考えられなくもない。しかし、ダンヒルに限ってはまったくそうではないであろう。シェルはブライヤーの選択からそのデザインが始まり、すなわちアルジェリア産のものがより柔らかく、凸凹の表面を得るためには適していた。それらはまずオイルによって処理されることで強化され、ブラスト用に供された。初期のモデルは、シェイプの変化に関していくつかの問題を抱えていたが、コレクター達は今日それらは優れた特徴であると言っている。

創業当時よりダンヒルはその科学的精神と競合者への注意によって、分類体系を作っていたが、またそれは年と共に変化し最終的には標準化された。パイプには(正確に言えばシャンクには)、文字と数字によって刻印がなされたのである。詳細な分析をしようと思えば、この分野の専門家が必要であり、新たな発見はさらに問題を複雑する。簡易的に少し触れるならば:
1975年まではブリュイェールはAの刻印があった。「Inner tube」は1934年まで刻印された。H.W.はハンドワークトの略で、1930年代まで作られた完全にハンドメイドのパイプに付けられていた。ODはオウンデザインの略で、顧客自身の個人仕様で製作されたことを示し、20年代後半から30年代前半まで遡ることができる。

初期から1930年まで見られるD.R.の刻印に着目せねばならない。それは非常に少ないブリュイェールパイプにのみ施され、(Dead Root、枯れた根)を意味している。これらの名称とその続編は、主にマーケティングの問題であるということを指摘せねばならない。しかしながら、かなりの数の人々はデッドルートの本来の意味にエキサイトしてきた。加えるならば、パイプは非常に希少な完璧なストレートグレインのモデルで、プレミア付きで売買されるのだ。長年に渡り、ダンヒルは、アルファベットの文字と数字を用いて製品の美的観点に基づいた等級を示す体系を確立してさえいた。しかしながら、なぜデッドという用語を使ったのか?それはなぜなら、このような例外的なグレインは、古く枯れた灌木の古い瘤からしか採れないのだ、と言われていたからである。ブライヤーのキュアリングとその他の処理の全ては、土壌の中の自然なプロセスであるとさえ仄めかされていたのだ。しかしながら、この種の低木の専門家は、木が枯れればすぐに分解が始まり、完璧に使用不可能になるはずだとして反論している。いくつかの疑問はまだ残っているが、いずれにしてもその陰鬱な名称にも関わらずパイプ自体は素晴らしいものである。

他のコードは、1915年頃から現れ、パイプの製造年を明らかにすることができる。後になるとそれはより一層明確になったが、それは 1年の保証期間後にそれを使用しようとする人々を避けるためだった。今日では、このシステムはダンヒルパイプの製造年を特定したい人々にとって非常に役立っている。

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1928年は、創業者が引退することを決めた年で、会社の歴史にとって非常に重要である。とりわけ、アルフレッド以前-以降のモデルを区別するコレクターにとっては重要である。しかし、そこに大した違いはなく、家族の他のメンバーが事業を引き継いだ故に質の継続を見出す観点も存在する。

製品の分類については、パイプの形状とサイズは、当初よりすでに正確なコードで示されていたが、間もなく1930年代には統合された。製品の種類を制限する必要性は遠隔地ではすでに存在していたが、産業革命の出現と市場の拡大に伴い、この必要性が強くなった。直販で購入する人々は少数になり、したがって仲介業者の販路が長くなった。 19世紀後期には、通販が普及し、カタログの製品の説明は短く、かつ的確でなくてはならず、また小さなイラストを含んでいた。 1910年、アルフレッド・ダンヒル自身が最初のカタログ「スモークについて」を著したが、それは遠方の顧客がパイプ、アクセサリー、ブレンドの特徴をすぐに把握できるように注意深く書かれていた。しかし1920年代からは、アメリカ市場を皮切りに産業と貿易の発展とともに繁栄が進み、後に「消費者社会」と定義されるものの現出を見る。モデルの数を減らしつつも、特徴的であり続けるという傾向は、ダンヒルによって考案されたものではなかったが、いずれにしても時代の流れに乗ってそのようになっていった。ダンヒルのクライアントは、形状とサイズを示す一連の確立済みの分類によって、パイプの特性を直ちに理解することができた。このタイプの分類を通じて、同社はパイプ市場に大きな影響を与え、他の企業も間もなく採用することとなった。

アルフレッド・ダンヒルの引退後、パイプの仕上げは常に外部の状況と市場の要求により変更されてきた。ここではいくつかの例を挙げる。

(以下次稿へ続く)
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