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ひとみからハイオクが

チーズ入りのパン、ハーフムーン・ベイ

最新のニュース(2017/08/15)

最新稿は第256稿と4985スシ。終戦記念日によせて。ご来場の淑女紳士の皆様には篤く御礼を申し上げます。
(この部分は見出しです、中身はありません。)

第4985スシ(外交史料館と戦争省)

夏季休暇中に在外研究に来ているとある研究者と連れだって郊外の外交史料館と言うところへ行き、百年程前の古い史料を山ほど手繰って写真に収めてきた。その数およそ千枚ほど。これをまだ数日間は繰り返すので、総数は数千枚になるのだろうと思う。手書きの史料なので非常に読みづらい上に、写真を撮りながらなので今のところは大雑把なことしかわからないけれど、それでも興味深いものが散見される。中でもその名もズバリ、「戦争省(ministère de la Guerre)」の文書が目を惹く。その他にも海軍・植民地省(ministère de la Marine et des Colonies)なんてのもあった。よく考えてみれば、今では防衛省等と名称を変えて存在するのだから別段驚くに値しない。それでもこの名称はそれなりに胸を打つ。軽く衝撃を受けたと言っても過言ではない。

外交文書だから、手書きにしても美しく体裁の整ったものが多く、こんな字を書くことが「教養」でまた「外交力」でもあったことを思うと興味深い。飾り字の凝った印なども見る目で見れば佳いもので、戦争(Guerre)の文字が美しい。しかしそうでなければ、例えば「せんそうだいじん」等と子供に書かせれば、それはまさしく本質を炙り出すようにも思われる。つまり、美しく格式ばった書体を用いなければ、その程度のものという事ではないだろうか。逆に言えば、そのような形で正統性を粉飾さえすれば、それが十二分に通った子供っぽい時代であったと言う事ができるだろう。

(同様に今の私達も、世紀を経て後世から見れば子供っぽいと言われることだろう。そしてそれはそうあるべきだ。)

ところで、昼食の際に各地の日本食の話題などに及んだのだけれど、ロンドンにてスシを食したところ、それは不味くよろしくなかったのことだった。私もこちらに来た当初は、日本食レストランの多さにまずは驚き、そして嬉しく感じ、後に質の悪さに憤り、と一通り経験してきた後に思うのだが、論点は二つある。

1. もしプロモーションの事を思うならば、なによりこの数の多さによってまずは大いに担保されるものがあることを忘れてはいけない。つまり、仮に不味いレストランにあたったとしても、今の欧州の人達はもはや「スシが不味い」等とは思わず、このレストランは外れだった、と普通に思うだけだろう。ならばどんどん増え続ける「日本食」レストラン(多くは「スシ」と「マキ」と焼き鳥)、宣伝に大いに役立ってくれるのをありがたく思いこそすれ、無暗に批判するにはあたらない。伝統を重んじる〇〇と言う名の老舗の看板を揚げる、ということでもない限り、小うるさく言うことでもない。不味いピザにあたったからと言って、イタリア人の食生活を疑う人はいないだろう。

2. 二つ目はもう少し根源的なことだ。スシは別に私の持ち物ではない。ならばなぜ、盗まれたように感じるのだろうか。その理由はなんだろう。文化とは互いにコピーしながら発展し高めあうものだと当たり前のことをあえて言わねばならない程の、近世以降、我々の盗り盗られ合戦の激化が原因のひとつかも知れない。確かに盗まれたと思うなら守らねばならない、金が絡むなら猶更のことだ。

それで、直接の所有物でもなんでもない食文化に目くじらを立てるのは、国際社会における存在感のリソースの少なさが遠因の一かとも思う。正確に言うならば、少なく思ってる、ということだろう。少なくある誇れるもののうち、ひとつが、中でも大物がパクられても困るのだ。そういう思いではないだろうか。
そもそも島の中にいる人達の多くは、外の世界に等それ程興味もないのだ。それがある時、スシが流行ってるらしいと聞く。それも別の人達がコピーして売り出してるらしいと聞く。そこで慌てて保存し、保護しなければならないと思う。

もちろん保護するものはそれが出来る場においてすれば良い。個々の商店や会社の範囲でレシピを守ると言うならば、現行の社会の通念からも妥当なことだと思う。しかし、人類としては分かち与え合わなければならないものも、それは確実に存在する。資源がそうだし、文化だってそうだろう。一幅の絵は博物館で保護しておけばいいが、コピーは誰でも目にできるほうが良い。そうでなければ、せんそうだ。

私達が誇れるものとは(あるとすれば)人間性や優しさと言ったもの以外にない。寛容性も大事なことだ。持ってるおもちゃを分け与えられない子供から、成長すれば誰でも少しは大人にはなるものだ。少なくともそう思いたい。とりわけ終戦記念日には。

キーワード:外交史料館、戦争省、スシ、食文化、資源、共有、囲い込み、寛容性。

第4986猫(人間の進歩と猫は世界を救うか)

ところで私は、猫が好きで猫が嫌いだ。論理が破綻しているようだからもう一度書くけれど、猫が好きででも嫌いだ。正確に言えば、猫は当然かわいいけれど、愛玩動物という存在自体に時にやるせない気持ちになる。これがもし、自らの意志で自分で選んで得たものならば、特になにも思わない可能性は高いだろう。古今東西を問わず多くの芸術家・文人等がしてきたように、大層かわいがることだと思う。谷崎・漱石は言うに及ばず、今なら村上春樹、古くはユーゴーやヘミングウェイ、皆猫が好きだ。自由気ままに生きているように見えるし、エレガントで何より美しい。

ところが連れがもともと持っていた猫ならどうだろう(良くあるパターンだ、独身の女性は猫を飼うものだ)。もちろん男女が逆でもいいし、同性同士だって構わないのだが、いずれにしても猫がついてくる場合だ。その際は、私達の間柄の関係の変化にしたがって、受容の感じも異なってくる。初めはもちろん文句なんか言わない。むしろ、まあかわいい猫ですね、と賞賛を送るのが筋だろう。猫は犬よりは手がかからず、それほど邪魔になるものでもなく、ここは猫好きを訴えた方が今後のためにもなにかと得策だ。たとえアレルギーがあって一年のうち一月ほどは喘息気味であったとしても、そんなことは大したことではない。少なくとも、そういう素振りを見せずには折角の縁も台無しになってしまう。

ただ、慣れてくればそれも煩わしく感じることもあるだろう。なにしろ奴らは何もしない。日がな寝てるだけで愛情をたっぷり受けるのだから、時に嫉妬を感じることさえある。もっとも私はトイレ掃除なんかは一切しないし、餌を時折買うだけなのだが、それでも面倒な時もある。最悪なのは旅行などに出る時で、その度に誰に預けるやら餌や寝床を運びこむとか(爪研ぎまで!)いちいち大事だ。どうして自分の身一つで身軽に旅立てないのだろう?自由とは何か?

そうでなくとも「動物愛護」などを声高に叫ばれると、どの口で言うのだろうと思う。どうしてそこに依怙贔屓があるのか。そもそも彼らが独りで生きる道を絶ったうえでかわいがるって何だろう。去勢をし、いつまでも子猫のままでそれは確かにかわいいだろう。そうしなければ彼らはその本能により辛い思いをするのだろうし。いずれにしても家猫はもう野生には戻らない。ペット産業は産業として成り立つのが現代で、それに人間と家畜との関係のその歴史は長いのだ。動物好きに悪い人はいないなんて聞くと悪い冗談だと吹き出してしまうが、ならば、少なくともその身勝手さをわかって引き受けて欲しいと思う。つまり、私は生きてるぬいぐるみが欲しいのだと、生きてるおもちゃが欲しいのだと白状すれば良い。おもちゃだれど、生き物だからその分大事にはします、と言うのなら聞く耳も持てると言うものだ。家族の一員だなんだと下手な言い訳をするよりむしろ立派だと思う。

ただ思う。私達人間はそもそも自然な存在ではない。少なくとも田畑を耕し始めて以来、私達は決して自然に生きているわけではない。時折ルソーのように、自然に帰りたい人達とはいつでもいるけれど、裏をかえせばそれは私達の存在が自然ではないことを示している。社会の善悪、大きな格差と不平等、それらすべては私達の私達性にあるのであって、またそれは弱者や病人を助ける「自然ではない」一面もあわせもってる。そう考えれば、「不自然な猫」の存在など取るに足りないのかも知れない。

そうでなければ、狩猟採集生活に戻るしかないので、大掛かりな社会保障や病院はなりたたない。それで、それでも戻りたいと思うことがあるだろうか。ハンターは厳しくも美しい存在かも知れないが、よそに農耕の民がいれば確実に負けてしまう。弓が実は鋤や鎌に敵わないのは歴史が証明してる。アイヌやネイティブアメリカンの例を持ちだすまでもなく、狩猟採集民は農耕民族には獰猛さもカロリーも負けているのだ。

そしてそんな私達の不自然さも、長い目で見ればもしかすると自然の一部なのかも知れない。なるべくして進化したのだから。それでいずれ人工知能が登場して、仮に我々が淘汰される等ということがあったとしても、それもなるべくしてなるだけのことなのかも知れないとは思う。あるいは猫のように生き延びる手もあるのか。ならば、今のうちに学んでおくのも良いのかも知れない。爪研ぎはほどほどにして、あとは大人しくしていようか。もっとも、身なりには相当気を付けなければならないだろうが。

キーワード:猫、動物愛護、狩猟採集、農耕、ルソー、retour à la nature、AI、ペット産業、愛玩動物。

第二五六稿(GSX-R1100あれこれ2017年前半)

相変わらず赤いペンキが見つからないので(あるいは予算があまりないので)、
その意味ではただただ放置になっている2017年夏の私のマシンですが
他に車両もないので日常的にちょこちょことは走ってます。

主に買い物マシンとなり、郵便局に行ったりジャガイモを積んだり、
あるいは孫の顔を見に二人乗りででかけたり、

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とても耐久レーサー由来のものとも思えませんが、
幸い近所には高速道路が何種類もあるので、レーダーのない場所を選んで
加速したりはしている。
日曜日にはちょっと郊外へ行ったり。

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八月のこの時期、首都近郊はすいてる。
(今のうちに)ガソリンを消費するには良い。


買い物用にはビッグスクーターが欲しい等と独り言ちながらも
一台しかない、という状況自体にはそれなりに満足してる。
たくさんいると手が回らないからです。
もちろん物理的・精神的に回るならば、それも楽しかろうと思うところ。

ここ数か月であった事件とも言えない細かいこと:
  1. 油温計が突然不動に。ヒューズが飛んでいた。(6月)
  2. ついでにレデューサーを4年ごしに分解し、状態確認と清掃。
  3. 電動HVLPで塗装。(6、7月)
  4. ヘッドライトのバルブ切れ。イエローの方が飛んだ。(8月)

1. 油温計配線引き直し。
油温計はこの冬(2017)に針の振れをシリコンオイル注入により直したばかりだったので
またか!と軽くショックを受けましたが結果としては配線の取り回しを変更しただけで直ってしまった。

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それでも最初はわからずまたバラしたり。
つい疑いますが、結局メーター自体はそう壊れたりしないらしい。
また無駄に開けてしまった。


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当初なかなか原因が特定できず、マルチメーターも久しぶりに使うと配線の仕方さえ忘れてる。
写真ではそもそもレンジが合ってません。かつ、うっかりメーター中のヒューズも飛ばしてしまった。
電気は難しい。火災に注意。


イグニッションをONにするだけで何度もヒューズが飛んでたので
どこかでショートしてたのだろう、と考えるのが筋ですが
一部外して見れば配線自体にダメージもなさそうで、したがって交換もしなかった。
(特にメーター裏、ハーネステープで保護してる個所は、それを解くのも面倒だった。)
そのかわり、油温センサーからの配線がエキパイに近くあやしかったので、キャブ側から回すことに。

そこが原因だったのか全然わかりませんが、配置換え以降2か月間、まったく問題なく動いてる。
針の踊りの方も完治した模様。
ヒューズ飛びの原因がはっきりせずすっきりとはしませんが、まあ良いでしょう。
配線自体も熱的に安心です。

2. レデューサー掃除。
設置したのが2013年で、それ以来初めて開けます。4年放置!

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意外とキレイ(?)で拍子抜けしました。
若干乳化してますが、ドロドロで詰まるなんて状況ではなかった。
腐食なども一切なし。
リードの具合も良好だし、Oリングもまだまだ柔軟。

レデューサーの効果については今更私が言うまでもないと思います。
良いモノだと思います。

3. 電動HVLPで塗装。
赤が合わず、二回塗りました。

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そして二度目もまた合わず。
今度は車用の塗装屋さんに依頼したのに、それでも合わない。切ないです。
ちなみに左一度目はビニールヒープでマスキング、右二度目は紙のマスキングテープ。
どちらも塗ったままの状態。

以前も書きましたが激安の電動HVLP、結構使えますが

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漏斗状の容器で粘度を調整する。これに塗料と溶剤だけあれば塗れます。
タンクの中の様子。一応参考までに各諸元(拡大します)。


それなりにネガもあります。
  1. 霧が荒い。
  2. ので塗料を結果沢山消費する。周囲の養生必須です。
  3. ので通常のマスキングテープでははみ出ました。(ビニールテープなら大丈夫だった。)
  4. 薄めに溶けばゆず肌も大したことはない。いずれにしても磨き前提です。
  5. タンク内で塗料が減っているのに気付かず空気を巻き込むと、酷いムラになります。
いずれにしても缶スプレーの方が手軽でかつ綺麗に塗れます。
コンプレッサーがあればもちろんガンの方が良いでしょう。

4. バルブ交換。

薄ら暗いヘッドライトをなんとかましにすべくLED化したのが2014年末、
アリババ超特急購入の格安LED/H4ですが、2年半経った今でも全く問題なく輝いてます。
電動ファンも含め意外と壊れないので満足です。夜もまずまず明るい

今回切れたのはハロゲンのイエローバルブです。
いわゆるハイワッテージタイプと言うのか、消費電力の割には明るいと謳われている。
100/90W相当との表記あり。
事実、結構明るかったと思います。

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実際はもっとレモンイエローに近い。

片目ハロゲンにしたのは、Hi/Lowの切り替えがLEDだけだと心許なかったからです。
(あと、耐久風に色違いにしたいというのもある。
幸いこちらでは今のところ車検もないし、ポリスもスルーです。これが問題になることはありません。)

高価な品でもないですし、また私は信号待ちで消す癖があるのでハロゲンのハイワッテージなら
2年半もてばまあ良いかな、という感じです。
ただ出先で切れることを思うとそれはよろしくないですね。
幸いLED側は無事、かつ昼間だったので恙はなし。ハロゲンは交換も楽です。

二灯に別のシステムを構築するのもリスクヘッジとして一手かなと思います。

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その他、以前蛇行について書いたものを回収してなかったので追記すると、
タイヤの圧を変えて色々試してみたけれど、結局良くわからなくなってしまった。
タイヤの個体差、当たりはずれ程度のことかと想像はするけれど不明です。ただ今の所大きな問題はでていません。

カウルの塗装が無事に済めば、少し遠出をしたい。
ただし、いつになるのかがわからない。

第4987色(土地の感じと彼の地の感じ)

土地の感じと言うが、此の地と彼の地は違うだろうと言う人々は(それも数多く)いるだろう。私もそれはそう思う。それは違うのだ。土の色が異なるし、木々の緑も違う。私達は伝統的に淡い色調を好むけれど、それでは物足りぬという人々は確かに存在する。

私は淡い色が好きだ。日本画の岩絵の具の色が好きだ。桜貝の淡い色味は、決して成就し得なかった若き日の恋物語などを重ねてみればそのまま涙を誘う程だ。青とも碧とも分かち難い浅葱の色をした涼やかな色調は、夏の日の想い出であり七月の夕べには入道雲がいずる。蚊遣りの豚に線香を入れねばならないが、それでなくば蚊帳を吊り、日が落ちてからは線香花火をするのも一興だ。若き頃は友や恋人と、老いてのちは孫とでもするが良い。

それらを否定することは我を失うことではないか。我彼を区別しないということは、誰でもないと言う事にしかならない。誰でもなくなることを屈託なく受け入れられる人などそうはいなかろう。

そのならいで言わば日の丸は清かで美しく、あの全き単純性には感服さえする。君が代の重厚さと荘厳さとはどうだろう。巷によくある軍歌由来の軽薄さ等問題にならないではないか。

しかし。

(深く比べもせずに)日本好きだと(特に大声で)言う人達には言問いてみたい。例えばアフリカは暑く土は赤く緑も濃い。インフラが整っていないから町はゴミだらけで水はけも悪い。安い米の導入でカロリーは摂れるようになってきたから食べられるが、味付けは化学調味料で(マギーブイヨンの類)濃いものの繊細なものではない。肉や魚は高いから、ときに蛋白源として芋虫を食す。それで?何か問題が?

彼らが国を離れたとして、それらすべてを懐かしく思い出さないなんてことがあるだろうか。具体的な現実問題は勿論ある。つまりどこにでもあるように。そうでなければ、風の匂いや土の感覚を懐かしく思い出さないなんてことがあるだろうか。母の言葉を思い出さぬなんてことがあるだろうか。幼少の頃より慣れ親しんだ味がたとえマギーの味であっても(それ自体は別の問題として論じて然るべきかも知れないが)、それを懐かしく思わないなんてことがあるだろうか。緑濃き暮れなずむ赤土のサッカーグラウンドで、泥だらけになりながら球が見えなくなるまで遊んでいたことを思わぬなんてことがあるだろうか。

ところで多くの留学生を見ていて気付くことは、到着した当初では「私の国ではこうするのに」と言う人の多いことだ。確かに良し悪しはどこにでもあるが、多くの場合それは其の人自身の現地社会への適応の難しさに由来しているのも明らかだ。言葉の不自由さが壁を分厚くする。中にはとりわけ出来る例外的な人もいて、見ていれば友人も多く発言力もあり、より自由なのがわかる。闇雲な批判は影をひそめ、もう少し公正な視点を持つようにもなる。私達のコミュニケーションは(今のところは)言葉を媒介にせざるを得ないので、その能力の多寡によってヒエラルキーが生じてしまうと言っても良い位だ。これはこれとして具体的な問題として対処するしかない。

そのようにして考えてみると、我々は同じようで異なり(とりわけ言葉が)、また違うようで同じと言うしかないのかも知れない。そしてそのどちらに重きを置くのかは(あくまで流動する)視点による。私とあなたは違うけれども、私とあなたは同じですと言うのは決して矛盾ではない。

追記(2017/08/03):「アフリカ」とひとまとめにし過ぎたきらいあり。反省。具体的には西アフリカのセネガルやブルキナファソの郊外あたりをイメージしていた。

キーワード:言語教育、アシミレーション、インテグレーション、同化政策(の是非)、バベルの塔。

第4988地中海(土地の感じとスナフキン的所有)

土地の感じ血縁と地縁」についてまだ結論を書いてなかった。ひとつには単純な結論なんかない、ということ。二つには、当初の予定では、勿論、血にこだわるよりは地の繋がりが人類にとって重要なオルタナティブではないか、と着地するつもりだったのに、書いているうちに結局は同じことではないかと思われてきたからだ。

そもそもこれらの語は日常で使うような語と言うよりは、例えば共和国的精神において誰に国籍を与えるのか、という意味において対比される概念だ。血統主義と出生地主義と言い換えても良い。平たく言えば、日本で生まれただけでは日本国籍を得ないのに対して、その地で生まれれば籍を与える国がある。だから、そのような意味合いにおいて議論する限りでは確かに俎上に載せるべきものだ。現実問題として決めねばならない。

ただ、人とは家族が大事で、そして次に隣人でとくるのは至極当たり前のことだ。いかに現在の世がグローバル化しつつあると言っても、生活の基盤が地域地域にあることにはほぼ変わりがない。交通手段の進化によって、その地域とは地理的にかなり拡大し程度こそ違えども、その原理には変わることがないだろう。さて、それをどの辺で区切り、どの程度まで混じらわせるのか。今や各地との交易なしには私達の世界は成り立たない。成り立たないが、それでも私達は知らず分断されている。あるいは自ら嬉々として独立を謳う。

先日、アフリカからのボート難民を押しとどめるべく、クラウドファンディングで船を仕立てて活動する欧州の若者たちのニュースを目にした。私も静かな住宅地にガヤガヤとよそ者に来て欲しいとは思わない。何と言ってもうるさいのは嫌いなのだ。それで当世風にネットで資金を募り、そんな活動を起こすなんて、なかなか現代的でもあるしそれになんて家族思いなんだろう。素晴らしい地域社会を作って、あるいは受け継ぎ、そして守る。立派なことだ。難民にとってさえ、危険な渡航をはなから諦めさせることができるなら、それも安全だ。

問題は、ひきつった冷笑を頬に貼り付かせずにそれを言えぬ私にあるのか。それとも地中海が悪いのか。海は確かに悪いだろう。イルカに乗った少年も所詮は金の塊に過ぎず、ツバメの力を借りずには自らを分け与えることなどできはしない。仮にできたところで、なにもかもが足りないだろう。冬は寒く、渡りの鳥は死んでしまう。ならばいっそ鋳つぶして無に帰させるか。おとぎ話と違うのは、そこに別に救いなんかないことだ。

とはいえ、少し希望を持つようにしようか。
宇宙に行こうとするのは良いことだろう。火星人がいたら是非家族になりたいと思う。これは決して冗談ではなく、私達には恐らくそんな「方向」しかない、ということだ。幸い、科学技術は進むしかない。いずれ本当にそんな日がくるだろう。技術の進歩は僅かずつでも私達を救うはずだ。
技術以外はどうだろう。私達の心はどうだろう。そんな曖昧な「方向」を、匂いと味のあるものに変えるのが「土地の感じ」だ。行って直に手にその地の赤い砂に触れてみるしかないだろう。

キーワード:血統主義、出生地主義、オスカー・ワイルド、ハッピープリンス、島の女、ジュリー・ロンドン、火星協会。

第二五五稿(これはパイプではない、喫煙銘柄2017年上半期まとめ)

2017年の上半期分の一覧です。

第二四〇稿(これはパイプではない、喫煙銘柄2016年下半期まとめ)

一年半が過ぎて本人はだいぶん慣れてきたようにも思います。
仏国の喫煙事情は、ニュートラルパッケージの導入以外には特に変わりなく、

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こういうの。これはフィリップ・モリスだが、他のも全部同じ。
これはこれでミリタリー調で良い、という人もいるだろう。
ちなみに売り上げは特に減ってはいないようだ。むしろ微増してるとルモンドあたりが言っていた。


葉自体の通販が禁止されていることもそのままです。
つまり各国に展開されている多種多様の煙草にまるでアクセスすることができず、
それは好奇心や日々の小さな喜びを大きく減じさせるわけですが、
逆に同じものをひたすら吸い続けるベテランの渋みには早く到達できるような気もします。
が、それが何になるの?と自問してみるのも良いでしょう。

ときに2040年以降、ガソリン車の販売を辞めさせるようなことを仏政府は言っています。
同じようなことを今度は英政府も言い出しました。
環境保護問題は色々と胡散臭い面が多く、またよりによって(現在の中東問題に大きな責任をもつ)この二国が
揃ってこんなことを言いだす時点で、(石油がらみの問題なのだし)個人的には嫌な予感しか持ちませんが

内燃エン機関ジンを愛する私としてはただ、
自らの年齢に鑑みてなんとか逃げ切れるのかな、とぼんやり思ったりする。
いま青春真っ盛り、車やバイクが楽しくて仕方ない、という若者はどうするのだろう。


人々のメンタリティを語るならば、ものすごく大雑把に言えば世界の人々はてんでバラバラで
一斉に禁煙したりガソリンを止めたりはなかなかしないのだけれど、
(もちろんガソリンの事はまだまだ未確定だ)
国としては国権でぎゅっと締め付けるのはやる時はやる感じで結構こわい。
そもそも権力が民衆から大きく乖離している国の方が多いのではないだろうか。
人権的にはましのはずのEUにしても税金も高いし、実はなかなか野蛮な文明のまま、という感じがします。

「文明が野蛮である」、というベタな撞着語法にたどり着いたところで
これもいつか消えゆくかもしれないスモーキングの「自然な文化」の有終の美をじわじわと飾ることにしましょうか。

【睦月】
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SG、ベストブラウンフレイク*2:
完全に常用になってきたので二つ買う。よくパイプスモーカーがどんどん積んでいく、と言うのがわかってくる。
残り一箱になるともう落ち着かないの心。
SG、セント・ジェームズフレイク:
ぺリック混じりの(私的には)酔う事が多くて敬遠していたもの。久しぶりに喫えばそうでもないような?酸味。
ASHTON、ギルティ・プレジャー(開封):
昨年末に購入して開けてなかったもの。いわゆる着香、アニス系の香りが強め。
Vaとバーレー、香りはヴァニラ/マンゴー/エキゾチックシトラスとある。
実は半年後の今でもまだ残っている。名称は文句なしに素晴らしい。
無粋な警告文シールのせいでよく見えないが、ラベルの絵柄がこの煙草のコンセプトを物語る。
つまりデート用と考えて良いのかも知れない。それがなくならないのは悲しいが現実。

【如月】
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SG、ベストブラウンフレイク:
残り一箱になると買う。
SG、チョコレートフレイク:
軽い気分転換にと。僅かにラタキアが香る。この箱は半年ほどなくならなかった。
Dunhill、フレイク:
ダンヒルのエステートパイプを入手したので買う。気分的な問題。多少高いので普段はあまり買わない感じ。
貰えるなら喜んで貰う感じ。箱が小さくて良い感じ。
外に持ち歩くならこれかも。

【彌生】
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SG、ベストブラウンフレイク*3:
残り二箱位になると買う。
SG、フルヴァージニアフレイク:
それよりもすこし少ない頻度で買う。
Dunhill、エリザベシアンミックスチャー:
いわゆるVaPerのダンヒル。SGのセント・ジェームズと比べると酸味よりも僅かに苦辛いスパイス感がある。
「胡椒」を感じるとのレビューが散見されるが、ズバリではなくぺリックのスパイス感を指してると個人的には思う。

【卯月】
キャャプチャ

SG、BBF2FVF:
もう何もいうことはない。
Dunhil、三年熟成ヴァージニア:
ヴァージニアでそしてダンヒル。
オリエントが等の記述も見かけましたが、あまりよくわかりません。
次はロイヤルヨットを買うでしょう。

【皐月】
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SG、例のヤツ
ダヴィドフ、フレイクメダリオンズ:

目玉風に巻いてある煙草。写真は失念。
VaPerで巻の中心にブラックキャベンディッシュとあった。ダンヒルのエリザベシアンにも近い感じ。
あるいはそれより若干柔らかな印象も。中心部の味が薄いからか。
目玉巻は詰めやすくて良い感じ。もう少し安価なら普段買ってもいいの感じ。

【水無月】
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アンフォラ:

久しぶりに購入。すぐ消費、しばらくは買わないだろう。懐が寂しくなったら買うだろう。
SG、BBFVF:
もう一緒くたに表記する。
ASHTON、ゴールドラッシュ:
アシュトンのVa、かすかにレモンと蜂蜜でアクセントとある。普通に良し。はちみつレモンは気分。

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例によって駆け足かつかなり浅い個人的感想のみですが、前回と比べるとスレた感じが否めません。
購入量も少ないですし、ヴァリエーションも然りです。
煙草の選択肢が少ないから諦めてグレ始めたのか。それでも入手できるものの一部しか試してないのも事実です。
むしろ人格的な問題かも知れません。

ラタキアものをほとんど吸わなくなりましたが、実は7月に入って久しぶりに二缶程購入。
なかなか旨いですが、家人にはやはり不評です。
彼女は文句は言わないのだけれど、黙って窓を開けられたりするのはちょっと怖い。

着香ものもほとんどやらず、ヴァージニア系が基本好きなようです。
いくつか試しましたがこれまた大雑把に言えばどれも好みです。
ヴァージニアだけでもいいのですが、ペリク混じりが亜種としてアクセントになるようです。
つまり時々欲しくなる。
Va系ではBBFを一番嗜んでますが、比較的低価格で私にとっては鉄板になってます。
甘さの中の僅かな青臭さが飽きさせない気がします。
これを基本にして、たまにもっと高価だったりレアだったりするものを
回せれば今のところは言うことはないようです。

パイプ自体は増えてませんし、一本売却さえしてしまったので(9mmフィルターのファウエン)
目下僅か五本で回していますが(ダンヒル*3、カステロ1、ラナトラ1)
毎日数ボウルずつ頂いているのには変わりなく、良くも悪くもニュースはなくなってきました。
オイルキュアリングが云々と言い出した以上、もう少し探求を続けるべくアシュトンを一つ得ようと思っていたのですが、気に入った色がなかなか見つからず頓挫している。
それで同じ煙草を結構ひたすらに吸って思うのは、(味に関しては、また持っている範囲では)私はパイプ毎の有意の差を認めませんが、それすらも(逆)バイアスがかかってそう思ってる可能性を否定しません。
思いこみこそが私達である、と平気で言えるようになってきた程には私達の科学は進歩してきましたので
どちらも正しく、実際それで良いのだと思います。
木も葉っぱも色々試せる環境になれば、それもまた大いに愉しくやっていくことでしょう。

第4989杯(シャンパン、あるいはシャンパーニュ=勝利の美酒)

もう先月のことになるけれど、とある取材の通訳の仕事を得たのでシャンパーニュ地方というところへ行ってきた。東へ150㎞程の場所でブドウ畑ばかりが広がる。だらだらといつまでも続く多少の丘陵はあっても大概は平たんな土地で、その先に山地が控えているわけではないことを除けば、果樹に適した扇状地などと風景としては良く似ている気がする。要は、緑みどりしたブドウ畑だ。今ではほとんどあの有名なシャンパンの産地としてのみ知られているだけの好田舎(今作った造語だ)であるけれど、ちょうど100年前は多くの兵隊の血を大量に飲み干した土地でもあった。
100年なんて短いようで長く、長いようで短い。古い写真なぞを見ているとなんだかぼやけて現実味もなく思えるけれど、もし仮にその場にいたらまったくそうではないだろう。今私がこの眼前に見ているのと寸分違わぬ鮮明さで、人々がむやみやたらと塹壕を掘り、そこへ何か月も潜りこみ、そして「祖国」のために死んでいくのが見れるだろう。(反発は買うだろうが)多少過激なこと(そして悲しい事実)を言うならば、兵隊なんて女子供を(それも身内に、つまり自らの属する社会や国家といったナニモノかに)質草にとられた愚か者でしかない。それでも「敵」に盗られるよりはまし、と覚悟して割り切れる程考えが進んでいたわけでもなかろう。

シャンパンとは要は発泡ワインだけれど正確さを期すならば似て異なる。モノが異なるというより、カテゴリー分けが権力によって厳密にされ、原料とその産地、製法、炭酸ガスの保有量などに至るまで法によって定められているという意味で異なるのだ。つまり、シャンパーニュという名称は囲い込みがされ、それ以外のものはそう呼ぶべからずとお触れがでている。そしてフランス国内で決まっているのみならいざ知らず、諸外国にもそれを強要する(要請と言うか忖度というかは単に主観的な問題だ)ことのできる位のものでもある。そうやって国を挙げてのブランド化を推し進めると同時に、「お祝いにはシャンパンがつきもの」いうイメージ戦略を国際的に見事に成功させた。シャンパンで乾杯する、というのは特に伝統的にそういうものだった訳でもないので(かつてはデザートと一緒に飲まれていた)、F1の表彰台あたり多大な貢献があったと言うべきなのだろう。ここ数十年で出荷量が倍倍の三倍位に激増しているというのだから、見事な快進撃だ。それで、塹壕に埋もれた彼らの爺さんや曽爺さん達も本懐を遂げたと思うだろうかどうかは、畢竟私などには知るところではない。

日本の土地ではまだそれほど知名度の高いわけではないとあるメゾンを、販売元であるビール会社が大々的に売り出すということで取材があったのだ。大手の広告代理店がらみでイベントやらなにやらを打つらしい。金はあるところにはある、という感じだ。そしてそんなイベントだから音楽家やダンサーがやってくる。メゾンの一家の居城にはフジタ嗣治の絵も飾ってあった。なんでも戦後、戦争協力をけちょんけちょんに批判され、やってられるかと日本を棄てたフジタがキリスト教徒にコンバートし、その洗礼式の際、メゾンの主が代父になった所縁があるらしい。芸術にはパトロンが必要なのだ。これらは皆、気の良い人々ではあった。
と同時に私は、「農民芸術」なんてナイーヴなことを言っていた賢治のことを多少は切なく思い出していた。大戦当時のプワリュ(Poilu、ひげ面・毛むくじゃら)と呼ばれていた兵隊さん達も、塹壕戦の暇な時には薬莢とナイフで彫刻などを作っていたそうだ。アール・ブリュット(Art Brut、ブリュット=生のままの)とか、ナイーヴ・アートなんて今ならカテゴリー分けされるのだろう。そしていつか必ず、忘れさられるのだろう。

キーワード:シャンパン、シャンパーニュ、AOC、第一次世界大戦、塹壕戦、塹壕工芸、シャンパーニュ・アルデンヌ、レオナール・フジタ、テタンジェ、サッポロビール、宮沢賢治。

第4990企業(人の集まりと国家リヴァイアサン、「人工」知能社会主義)

すっかり創造力が枯れてしまった。もっともそれがあったとしての話だが。もともとそんなものはなかったのかも知れないが、少なくともその意志はあったのだ。
思えば、中年になってから社会参画を強力に謳いだしたサルトルを持ちだすまでもなく、数少なくない作家・芸術家が年齢と共にその創造力の枯渇と歩を合わせるようにして政治的になっていくのも別に驚くには値しない。創造的な天才とはそもそも若さゆえになし得ることなのかも知れないし、故に夭折すればするほど良い。そうでなければ、どのようにして「ものの言いたさ」を担保すれば良いのだろう。革新的な創造力と言うのは殆ど若さと同等なのだ。年を取ると共に誰しも少しずつは社会・世界と自らは同化していくのであるし、何も新しいことなんか出てこなくなる。同時に、今までは他人事であった社会事がなにか特別に大事なことのように思われてくる。さまざまの不正や悲劇を見るにつけ、どうにも黙ってはいられなくなるものだ。家族・親族や身内や部下を思うあまりついうるさ型になってしまう世のお父さん連と結局同じという事だろうか。

若い頃は新聞なんか読まなかった。むしろ積極的に嫌っていたと言っていい。とりわけ政治面や社会面は唾棄の対象であったのだ。政治は馬鹿すぎるし社会は悲惨すぎて正視するに堪えないと思っていたのだ。見るたびに暗い気持ちになる。それで読むのをやめてしまった。それでとりあえず何事にも高見の見物を決めるノンポリとなることに成功したわけだが(なんてお手軽な成功だろう)、ついに中年になり人並みに政治を語らねばならぬという気持ちになり、そして改めて見てみれば状況はまったく変わらない。むしろ悪くなっているとしか思えない。嘘ばかりつく人達が連日ニュースを賑わせ、そして人々は二つや三つにわかれて罵倒しあってる。これは一体どうしたことだろう。

悪いのは、ある程度世界を見て回って、様々の不正や不公平をじかに知るにつけ、それを正さねばと思う以上にどうにもならない感が強いことだろうか。なにせ誰しもがその正義を抱えているのだ。どちらも悪くそしてどちらも正しい。私は(あくまで便宜的に)、強者を悪とし、権力を悪とし、とりわけ利益を追う大商人達をその根源であるとする傾向があるのを自覚しているけれど、実際に一人一人にあたって見れば、小物しかいないのも知っている。とある事故にて逆説的に世界中に名を馳せてしまった大企業の責任者を個人的に私は知っていた。友人の父君であったのだ。奥さんに隠れてガレージで煙草を吸う、囲碁の好きな気のよいお父さんであったのを良く覚えている。それ以上でも以下でもない。「責任」は免れるものとも思わないけれど、巨悪や極悪人なんて小説的概念とは程遠いのも確かだ。

もしかすると正しいという事が悪いのかも知れない。人間が悪いのかも知れない。ついには人の集まり自体が悪いのかも知れないと思う。

私は何事においても一人で行動するのが好きだから、うっかりとあまり気づかなかったのだけれど、人は一人では生きていけぬし、また集まるのが好きなものだ。そしてそれは確かに楽しく時に美しい。近頃、私は近所に同じ日本人の若者が住んでいることを偶然知り、その知己を得たのだが、日本語で他愛ない事をお喋りしているとそれはそれは楽しい。コミュニケーションにおいて楽でもあるし、何気ない冗談ややりとりが心地よい。二度程連れだって遊びに出たりもしたものだ。

同時にはたと気づくのが、連れだって楽しそうにしているとそれだけで他を排してしまう。見た目が異なり、そして何より言葉が通じぬからだ。小柄なアジア人が二人なら大したことはないだろうが、これが五人もいればそれだけで十分に圧力となるだろうことは想像に難くない。とは言え、集まるなとも言えないのだ。同朋で集まるのはなにしろ楽しく、楽でそして時には美しいのだから。

そして、そんな風に思えば何かもかもがなるようにしかならぬ。私は、技術の発展を待って、AIに世の中を任せればいいのではないかと夢見るようになってしまった。それでも映画マトリックスのようになるだけかも知れないが。さて、同朋のために戦いに出るとするか。キャプテン・ミフネはどこだろう。

キーワード:アンガージュマン、社会参画、投企、企業、人の集まり、共生、ホッブズ、マトリックス。

第二五四稿(GSX-R1100塗装、電動HVLP・電動スプレーガン、あるいは赤の悲しみ)

被追突事故でお尻を失って早三年半ほどたつ我二号機でありますが、ついに重い腰を上げて補修にとりかかりました。

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その間に色々と禅問答した経緯は次の通り:

1. すぐに直したいので地元のスズキにペイントの依頼をする。
2. 数か月たっても音沙汰ナシ → 連絡すると良いペインターがいない、今後も予定はないとのこと。
3. ペインターやアトリエは探せばなくはないが、あまりない。値段も高いし、時間もかかる。そもそも車の傷や凹みをいちいち直さない国民性なのだ。
4. 黒と白なら缶スプレーで自分で塗れるが、赤は色が合わないので無理。
5. それにどうせならシングルシートにしたい。

6. もともとお尻がでかいのが格好悪くも味の初期型だけど、なきゃないで
7. 走るのには困らないし、左右振り分けバッグを良く使うのでむしろ便利。

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よって放置になり、そしてついに三年が経過。
この頃は二人乗りもあまりしないのもあるし、そろそろいっそシングルシート化するか。

8. エアーテックのカウルを色々物色。トルネードレプリカもいいし、モリワキ型も捨てがたい。
9. でもタンデムすることもあるので、すぐに戻せないと困る。
10. ならやはり750Rのレプリカシングルシートか?
11. でもシート自体は廃盤だ。ノーマルシートの余りがあるのでぶった切って使えないだろうか?
12. しかし塗装はどっちにしろ赤が要る。いずれにしてもややこしい。

と逡巡していたとある時、レーサーのお尻に蛍光色が塗ってあるのを見る。
そう言えば、ルマンの赤に蛍光オレンジとか純正で塗ってあった。懐かしのカッコよさが脳裏でよみがえる。

DSCN4076.jpgBlue Moto Guzzi 850 Le Mans pic2

14. 黒白だけだと間抜けだが、そこに蛍光オレンジ入れて誤魔化せないだろうか?
15. ならとりあえずシングル化などややこしいのは一旦忘れ、塗装してみやう。
15. かつ余白はレタリングを施してカッコつける。この際、オリジナルの塗装は無視しよう。

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ところで、マシンに文字が書いてあるとなぜか格好いい病に罹患してる男子は多い気がするけれど
その理由は文化的なものなのか、それとも生得的なものなのかつい考えてしまう。
普通に考えれば、レーサーの広告などから刷り込まれるのではないかと思うのだけど、
私は子供の頃からガンプラなどで好きだった。
あれは勿論軍用機からの転用だけれど、当時ミリタリーおたく少年等であったわけではなく
むしろ軍のあれやこれやは全く知らなかったのだから、単に文化的刷り込みとも言えないのではないか?と自問している。
一種のミーム(文化遺伝子)のようなものなのかも知れない。

ともあれ、なぜかアメリカンなレタリングを施してみたのだが、
できの悪い(かつ根源的中二病を患った)スラッシュメタルバンドのロゴのようになってしまった。
案外これが私の本質なのかも知れない。

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予想に反して(当然とも言うが)、他の部分との整合性がなく
むしろそれを狙ったとは言え、まったく気に入らなかった。まったく気に入らない。

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16. 別イメージは無理。やはりオリジナル保全で行こう。
17. やっぱり赤が要る。 

結局ここに戻る。仕方がない。
プロに頼むより安ければ良いの精神で缶スプレーを買いまくる時がついにきたか。
GSX-Rのステッカーなんかもないから、マスキングは手切りでやってやる。

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18. 缶スプレーわずか4本で心が折れる。赤はやはり難しい。
19. 調色してくれるところはなくはないが、缶スプレーにはならない。
20. なら最悪刷毛塗りして、磨いてやるか。

手前味噌的ではあるけれど、このオプティミズムには我ながら感心してしまう。
本当に刷毛塗りするつもりですよこの人は。

21. そこで車の刷毛塗りの情報を探す。 → なにげにある。
22. するとそこで電動の簡易スプレーガンらしきものを発見する。

ガンで塗れれば勿論最高なのはわかっていたけれど、コンプレッサーやら設備が大変だと
思いこんでいた。(だから缶スプレーで塗っていた。)
慌てて調べてみれば、電動スプレーガン、電動HVLPなどと言って、少し前から出回っているっぽい。

※HVLP(High Volume Low Pressure)、大量の空気と低圧のスプレーガンと言ったところでしょうか。
圧が低いので大きなコンプレッサーが要らないとのことらしい。
廉価なものなら数千円くらいからある。こんなに安くて使えるのだろうか?


色々調べてみると、車用には問題外的な意見から意外と使えるまで様々の情報が出てくるけれど
缶スプレーで希望の色が入手できない以上、やってみるしかないでしょう。
もうあとには引けない。

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さっそく買ってきた。価格はなんと25ユーロ也、円にして3千円ほどだろうか。
どうもDIYの盛んなこちらでは結構メジャーなものらしく、もう少しパワーがあったり
タンクが別体になってたりとバリエーションも豊富。
私は例によってどうせならと最廉価のものを購入。
パッケージや取説の昭和感が結構すごい。
こっちのお父さん達はどうやらこれで連綿と家の壁や柵を塗り続けてきたらしいのがわかるというものだ。

粘度を調節するための容器がついてくるので
適当に薄め、あとは吹くだけ。
吐出量を調整するつまみだけがついており、スイッチはon/offのみ。
かなり原始的な感じ。

感覚としては、圧が低いので缶スプレーなどとは全然異なり、大袈裟に言うなら水道ホースをぎゅっとつぶして庭に水を撒いてるかのごとし。
それでも粘度をうまく調整し、かつ距離や動きをうまくすれば結構均一には吹けると思います。

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霧が荒いので当然ある程度ゆず肌になるわけですが、磨き前提でやるのなら全く問題ない気もします。
粘度を落としたり、リターダー(ぼかし剤、乾燥を遅らせる)を加えたりすれば、そのゆず肌自体もかなりましになるかも知れません。
今回、小さいパーツを塗るだけなので磨きも苦になりませんが、広い面積をやるのはそれなりに面倒でしょう。
メタリックや二液式のウレタン系には向かない可能性があります。

その他、
  • 騒音が結構ある。
  • 缶スプレーのようにポイ捨てできない。
  • 電源が必要。
  • 準備やら掃除とかが手間、塗料扱うのであちこち汚れる。
等のネガも。
【結論としては、希望の色が缶スプレーであるのなら、バイクの塗装くらいならばスプレーで十分だという気はします。】


ただ、色がないのですよね色が。
※調色して缶スプレーにしてくれるお店は遥か彼方の神奈川県にはあるようです。

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大がかりな機械で測定して調色してもらった結果がこれですよ。
(そもそもオートバックスでスプレー買えとなかなか引き受けてくれなかった。)
これでようやく直せると歓喜していたのに

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わたくしはとても落胆し、かなしみのあまりあくたいをついていたら、


友人には

「市内で走れないバイクにそこまでするかごくろうなこった」

とバカにされ、つまには

「そんなに要求するなら日本で買えば?」

と突き放され、お店ではうるさがられそして誰も助けてくれずついにこのままハゲるのではないかと思ふ。


(続きます。)
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第4991ルペン(あるいはメロンションと大島渚)

大統領選挙があったり、極右政党(と言われている)のルペンが大奮闘したり、長年政権を預かってきた二大党が共に惨敗したり、極左のメロンションが大島渚に極似だったりして(もっとも彼は討論中にバカヤロウ!とは叫ばないが)、ここのところあまり気持ちは落ち着きがなかった。個人的には与党社会党はむしろ大島渚を立て、左派で共闘すれば良かったんじゃないか、等とそれこそバカなことを考えたりもしたけれど、主義主張が異なるのだからなかなかそうもいくまい。とはいえ、どことどこと組んで頭数を増やすか、というのは実際に政権をとる上で欠かせない要素なのだから、政治とは実にバカヤロウなことだと思わざるを得ない。むしろそれこそが政治だと言っても大きく外れてなどはないだろう。

ところで世の中を見れば、左翼党のメロンションが実は大島渚の影武者(生まれ変わり)である、ということに気づく人はあまりいないようで、もっぱらルペン女史と若きマクロンの対決に話題は集中していたようだ。とりわけマクロンはその若さと美貌で、またそれに加え大幅に年上の妻がいるというゴシップ的要素を加え、私も一次投票当初から勝つのは彼だろうと思っていた。同時に、極右と名指しで学識界だけでなく政財界からも総攻撃を喰らっていたマリーヌを見るにつけ、天邪鬼かつ判官びいきの私は(加えて熟女好きの私は)むしろそれ行け!とばかりの気持ちになっていたことを「自白」せねばならない。

なぜ白状せねばならないのか。それは国民戦線の支持者はレイシストのレッテルを貼られているからだ。オヤジ殿が筋金入りの右翼の大将でそれが起源なのだから、当たり前と言えば当たり前だが、実際には娘のマリーヌはそれを追っ払いイメージ向上に努め、政策レベルでも必ずしも極右とは言い難い。にも関わらず、(原理主義の)イスラムを敵視し(「不法」の)移民を排斥し、という部分は良くも悪くもブレないのだから、一般に「良識」のある人々から拒絶反応を受けるのは致し方ない。手元に彼女の二次投票用のブローシャーがあるが、その部分を読めばやはり私も眉をひそめてしまう。

実は、本来は、そんなに異民族・異文化が嫌なら自分たちだけでやってみせろ、位の捨て台詞的反発心(+判官びいき、+下衆な野次馬根性など)からルペンに着目していた。そもそも、純フランス人なんて言う概念が気に喰わないし、どこで切り分けると言うのか。できるんならやってみれば?といった感じだ。学校へ長々と通い、ある程度世界をまわってきた私のような人間の多くは、枝葉の違いはあるとは言え大概は左派になるもので、その意味でもルペンを嫌いこそすれ応援するような筋合はない。そもそもこの私自身が異民族だ。だから、初の女性大統領になるかもしれないということ以外に価値はない、位の反応をするのが普通だろう。

でも、私は自分自身の感覚として知ってしまった。弱い人間は、「よそ者」が怖いのだ。理解しろ、と言うのは容易いが、その能力があるかどうかはまた別の話なのだ。アンチ・レイシズムと言えば聞こえは良いが、実際には多くの人達はハードコアの人種差別者と言う訳ではない。コチコチのレイシストなんて本当はどこにもいない。ただ、「自分たち」と異なる人々、異なる文化・宗教、とりわけ言語が通じぬという事実によって、自他を区別しないわけにはいかず、そしてそこにストレスがかかれば嫌いにもなっていく。例えばもし仮に即席のプチ・レイシストを作りたい等と思うなら(作りたい理由はわからぬが)、誰であれ混雑する移民局の受付でもやらせれば簡単にできあがるだろう。全てを受け入れる訳には無論行かず、よって書類は煩雑を極め、それに対応できぬ人々はいつでも大挙して押し寄せ、時に口汚くののしってくる。文句を言いたい気持ちはわかるけれど、言われ続ける側も辛かろう。

だから、最終的には私の態度はこの短い大統領選のキャンペーン中の間だけでも変化していった。(恐らく無知と経験の不足によって)よそ者がなんとなく怖い人達(つまり実は私達全員だ)の気持ちを考えずにはいつまでも解はないだろうと思う。

キーワード:フランス大統領選2017、国民戦線、ルペン、極右、レイシズム、朝までナメてれば。

第二五三稿(免許点数に関する「知恵」について)

渡仏当初は渡航直前に運転免許試験場へ行って国際免許を作ってもらったものの、有効期限は一年のみであるし、なにやら法律関連の文書にあたってみれば、お国の免許+法定翻訳で運転できないこともないとの由。そもそも学生の身分であったので、書き換えができずそれ以外に方法がなかったのだけれども、本当にそれで良かったのかどうかはあまりわからない。一度、進入禁止の場所を張っていたパトカーに見事に捕まって(日本の警察みたいだ、普通は殆ど待ち伏せなどしてない)、叱られたけれど、書類はなんだかわけがわからないというような感じで結局見逃してくれた。外国人ならではと想像する。いずれにしても、後にスピード違反取締のレーダーの洗礼を受けるに至っても、免許の点が関係ない、という事実は大変ありがたいことだった。

もしかすると関係はなくはないのかも知れない。けれど、そもそも免許システムが異なるし(違反の点も日本は加点式で、仏では減点式)、連動させて適用なんてしてるはずがない。連動させるシステムを構築すること自体は可能だろうけれど、手間暇をかけて敢えてする必要も今のところはないだろう。

罰金に関しては、車両登録の関係で住所も氏名も当局に押さえられているのだから、素直に支払ったほうが良い。ただしこれも、長居する気がないのなら、国へ帰ってしまえば立ち消えになるのではないかと思われる。もちろん、「市民」としての務めを果たさねば、と「良心」を働かすこともできるけれど、本音を言えば保身のためだ。そもそもどこの「市民」かと問わねばならない。そして感じることはどちらかと言えば、異なるシステムを比べ、そしてその間を行き来してみれば、そういった社会の枠組みというものも所詮は作られたものだと実感せずにはいられない。一時的とは言い切れない程は積み重ねられて重みがあるけれど、かといって恒久的なものでもないことも確かだ。

だから、うっかりレーダーを光らせて、「ウヒョー、減点なしだぜ!」等とヘルメットの中で叫ぶ位には自由を感じることはできても、二週間後には自宅に罰金払ってね封書が届いて肩を落とすことになると、その自由の二義性になんとなく落ち着かない気持ちにはなる。究極的にはどちらの側につくのか、という問題なのかも知れないが、それを突き詰めすぎれば原理的になってしまう。立派な人ばかりの社会であれば、その良い市民でいることに吝かではないけれど、まあそんなことはない。そもそも私も立派ではない。

その後最終的には日本の免許を差し出し、こちらの免許に書き換えたので、今ではすっかり点に支配される運転になってしまった。持ち点15点で始めるのだけど、早速14点だ。良いペースじゃないか。とは言え、実際には二年程で一点減点なので、まだまだ生き延びられると思う。基本優良運転の私だから、いずれ点も回復するだろう。

12点の間違い。日本のシステムと混乱してしまった。(2017/04/30追記)

ちなみにレーダーの直前には(一応)必ず警告のパネルが設置されているのだけれど、2011年の閣僚間決議によって取り除かれることになっていた。必ずしも良く見えるようになんか設置されてなかったから見逃すこともあるけれど、それはないよりはあった方が(少なくとも個人の財布には)いい。取り締まりたい側としては抜き打ちにしなければ面白くないわけで、だからそんなことになったのだが、反発が多大で結局二年後にまた設置するということになった。今のところは設置されている。ただレーダー自体も移動式になったり、特定区間の平均速度を検出したり、新型の覆面パトカーを導入したりとイタチごっこは進化をやめない。罰金はとればとる程良い歳入になるのだから、進化させない理由もないのだ。そして基本的に伝統的に、ライダーとポリスは良き(?)ライバルなのだ。

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「さて、奴さんがエンジンオシャカにする前に4速に入れるか」
(青のBMWは交通憲兵の車両。R1100RTか。)


ところで先日、古い車両の交通規制が布かれてから初めて市内へ突入した。またしても罰金を喰らうのは嫌なので、控えていたのだけれど大使館に用事があって仕方なかった。地下鉄などで行く気にはならない。そこまで良き市民意識も持っていないのだ。とは言え事前に、

「そんなの誰も守ってない」
「どうやって検問するんだ」
「オレのは新型だけど(許可を示す)ラベルも貼ってないよ」
「私も初めは様子見てたけど皆乗ってるからいいかなって」

等々聞いていた。そもそも二輪連盟は、無視するよう呼び掛けてるし、いくら市の決定に反対の立場とは言え、それなりに公共性のある連盟がそんな事言っていいのか?と思うのが日本的感覚だろう。でも、それが事実なのだ。

私のデビル管はかなり「イイ」音が出るし、80年代耐久レーサー風の赤いフルカウルは否が応でも目立つから、心配ではあったけれど仰せに従い、市の規制は無視して乗りこんだ。結果、周りを見渡せば確かに古そうなスクーターやバイクは走ってた。つい、

「へへっお前のも古いな」
「まあな、そっちもイカスねヴィンテージ」

とか脳内で妄想してしまう。大統領選挙のからみで、あちこちに警察はいるのだが、確かに古い車両などに構ってる様子は一切なかった。対テロ警戒の方が目下の任務だろう。私もしばらく走ればもうそういうことかと得心がいって、もうつまらぬ心配などはしなくなっていた。むしろ久しぶりに走った環状道路の「車線間走行」の方が、心臓にピリピリくる。

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「通れる、通れる」
「180!こいつらバカか?」
「俺たち全員死ぬぞ!」


もちろん実際には180kmhなんかで走りはしないけど、相変わらず私はどのライダーにもついていけなかった。(渋滞の中)60キロ位で流してるのだとは思う。それでも私にとっては本能が拒絶するスピードだ。古いインフラの環状道路、渋滞の車線間の隙間なんてたいしてないのだ。二車線しかない首都高の方がよほど広い。
車線変更してくる車がいるから、下手に前のライダーと間をあけない方が良い、というのは理屈ではわかるけれど、そして努力もするのだが、やはり後ろからくるライダーに譲りながら譲りながらの走行となった。恐怖心の閾値が違うんじゃないだろうか。

ときに、一年前に免許を取ったばかりのピエールが、免許の点があと1点しかないと先日聞いてびっくりしたが、そう考えるとやはりそうなのかも知れない。15点中14点12点中11点を既に失ったとはなんて豪気なんだ!と感嘆したのだが、よくよく話を聞いてみると実は違うらしい。

15点中15点12点中12点、きっちり失くしたのを1点買ってしのいだと言う。

わけがわからなかったのだけど、こういうことだ。レーダーで違反をとられた場合、後日例の罰金はらってね通知が来るわけだが、その際に「違反を認めません」というオプションも一緒についてくる。確かに私の時もそうだった。そしてその場合、理由を記載せねばならないのだけど、中に「人に貸してた」という選択肢がある。それを選ぶ際に誰に貸していたのか記載する欄がある。

そうつまり、(点は買えなくもないのである。)相場もある程度あるらしい。点2万円と言ったところだろうか。こういうことを言うと、いわゆる「良識のある市民」の人々は眉をひそめるかも知れない。でも、繰り返すようだけれど、ある社会において何が正統で何が違反なのかは自明のこととして決まっているわけではないのだ。少なくともその決定に対して、従うかそうでないかは自分の意志で決めることができる。そもそも決定に対して意見することもできるのが筋だ。また一度決まったことには従え、と強制することも状況によっては横暴に過ぎることも少なくない。人種や文化・宗教が均一でない社会においては尚更だ。多数決が必ずしも善であるとは言えないのだから。

だから、こんなふうにある意味グレイな選択をして事なきを得るのも、一つの方便であり市民の生きる知恵の範疇でもあると私は考えるに至った。もちろん私が警察官であれば文句をいうだろう。でも私はその立場ではないし、また現状の国家というものが必ずしも絶対善などでは決してないことを思えば、これはかわいいチャッカリだと思うほどだ。片や免許を失わず、片やポケットマネーを得、そして国家に罰金自体はきちんと支払われる。いずれにしてもこの件では、目を開かれる思いがしたものだ。別に人に勧めるものでもないが、むしろ目配せをするような類のことで、そして「考え方」の訓練であるとは言ってもいいと思う。

第4992自己批判(と逆「総括」)

機体にもヘルメットにもつけた日の丸、とりわけサイドカウルに貼り付けたのは、いかにも戦闘機然としていて「走る」時には「強くなった」ように思わせるものだった。渋滞ばかりの環状で車線間走行を強いられる時、日が落ちて視界も悪くそして寒く、冬は殆ど晴れ間もなくすべては灰色でカナシク、そんな時、かつての戦闘機乗りについ思いを馳せたりする。私は独りスタンドプレイをしているけれど、本当はこれこれのバックグラウンドがあり、歴史と伝統があり、いざとなれば友軍がくるはずだ。その暁には「チーム」の証をつけていなければならない。ここまでベタな妄想はしないまでも、異国の地で走る日の丸は、単純にカッコよく見えていたことは確かだ。

思えば、軍服もカッコよく見えるようにもなっていたし、これはやはり変化なのだろうと思う。変節とまではいかない。信条が変わったわけではないから。それに私が好きだったのは実は鳥肌実とかで、これはむしろカリカチュアとさえも言えない単なるパロディだろう。ただ、どこで線引きができるのかはよくわからない。恐らくご本人にもわからないのではないだろうか。その他、オーケン(筋肉少女帯)の特攻服とか、なんでも漢字であてるヤンキー文字とか。妙に惹かれてしまう。もっともこれらは単に個人的嗜好の範疇に過ぎないが、良く考えてみれば気取って変な横文字ばかりをつかう人々に反感があるのだろうと思う。

とは言え、この私だって見る人が見ればそう思われるのではないか。現に「西洋」に住まい「西洋語」を話し、家人も「西洋人」で、仮にそれだけの理由で気取ってると反感を抱かれたとしても驚きはしない。なぜならばそれはそういうものだからだ。つまり、明治以降、西洋から受けた影響とは決して軽んじられない程の量であり、今でも脈々と続く無用のヒエラルキーの形成にも多大に寄与している。そして普通に科学や哲学を学ぼうものなら、特に意識をせずとも即座にその影響の下に身を置くことになるし(本邦の哲学はわざわざ東洋哲学と言わねばならない)、むしろ意識をしないと言う事は無批判にそれを受け継ぎまた強化していくことに他ならない。

だからこれは、当時風の言い方をするならば「階級間闘争」の問題に属することなのかもしれない。私は横文字ばかりを深い考えもなくやたらと濫用するのが気に喰わず、またそんな私も所詮は力仕事などしない読書階級に過ぎないと煙たがられる。

ただ、そんな立場の違いとはいつでもあくまで相対的なのであって、仮に私が日の丸を付けていたのは有限期間だけで実は一年もしないうちに居心地が悪くなり剥がしてしまった、と言ったところで、本来左の人達は私の心の弱さを攻撃し自己批判を求めるかもしれないし、逆に日の丸の好きな人たちには売国奴呼ばわりされるかも知れない。つまり静的な座標上で何処かに定位されるにせよ、それは見る側によって無論左右する。そして私自身がどういう立場でどこに定位されるにせよ、それは大した問題ではないのだが、大事なことはそんな信条さえ心情によっていかようにも変化するということ自体にある。動的に、通時的に変化しうるという事が大事なのだ。

そしてもう一つの事は、わかりやすく言ってしまえば「弱い」人達には国家や伝統が必要なのだ、ということでもあるけれど、それを他所から批判しても恐らくほとんど何の役にも立たないことだろう。いやむしろ、役に立たない、と言うのはそれが悪だとの前提を下敷きにしている。むしろ、何が悪いの?と言われるだけのことではあるだろう。必要なのは、多分、実は、いや悪くないですよ?と答えることなのかも知れない。特攻服、カッコいいですもんねと。私の日の丸をつけたマシンも、少なくともその環境と条件の下ではカッコよかったのだ。

キーワード:日の丸、ナショナリズム、特攻服、自己批判、総括、売国奴、善悪の彼岸。

第4993日の丸(土地の感じ)

それでバイク乗りとは自由を愛するリベラルな人種であると、若い頃は自然と思っていたから、とある時「白バイかっけー」と殆ど憧憬の眼差しをしながら言うライダーを見て心底驚いたことがあった。映画イージーライダーあたりを見て無頼派を気取るのが「通」で、また「筋」でもあったから、反権力は当然のこととして、既成の概念や社会構造に少なくとも何らかの疑いを挟むのがライダーたるものだと思っていたわけだ。正確に言えば思っていた、というより存在自体に本質的に含意されてるものと信じて疑ってなかった。

(ちなみにイージーライダーを通じて世界中の若者が憧れたハーレー、欧州車次いで日本車の攻勢によって経営が悪化し倒産寸前までいったが、その後米国のてこ入れもあって見事に復活を果たした。高率の関税で保護されるような「国家のシンボル的企業」になった時点で、私などは何が自由のシンボルだ等とまた青臭いことを思ったものだが、実際ハーレーを好む人達は世界のどこでも小金持ちのオヤジ衆が鉄板で、言わば草の根のプチナショナリズムを底支えするような層になったことは皮肉にも的を得ているように思われる。)

もっとも、かつての私の言う所の「反権力」なんて、スピード出し過ぎたら白バイにお縄になってむかつく、位の浅薄な意味合いしかなかったのかも知れない。とは言え、いずれにしても、ライダーでありながら白バイに憧れる、と言うのは世間知らずであった当時の私にとってはまさに青天の霹靂であり、そして理解を超え、最終的には侮蔑の対象となった。確かにその彼は、上にへつらい下には威張るというタイプのどちらかと言えば(私には)好感を持ちにくい男ではあった。

ところが、こんな私が自車に日の丸を付ける、と言う事があった。人は時と場合によってこうも変わるものかと思う。ちょうど2011年の震災があった後のことで、私はひとり他国におり、古ぼけたスズキに乗り、つまり寄る辺がなかったという事なのだと思う。当時所属していた大学機関が日本の震災に関して公式に集いを催してくれたのだが、日本人は私を含め三人しかおらず、いずれも初対面、かつこれといって話が弾むわけでもない。人々は口々にお悔やみを言ってくれるが私には何もできず、要は悲しくも孤独であった。道を行くにしても、私には頭のネジが飛んでるようにしか見えぬ無頓着さで車の列に突っ込んでいくこの地のライダー達はとても同朋とも思えず、むしろ同じ人類とさえ思えず、従って一度たりともそれについていくこともできず、文字通り孤軍命を張り、このままでは何時かついに異国の地に客死するかも知れぬと思えたのだ。だから、日の丸の小さなステッカーを作り、GSXRのサイドカウルに貼り付けてみればそれはあたかも戦闘機のようで美しかった。ヘルメットにも貼ったのだ。

キーワード:イージーライダー、ハーレーダビッドソン、反権力、ナショナリズム、血縁と地縁。

第4994サッカーと野球(侍ジャパンとは)

2017年の春、教育勅語がどうとか、WBCで侍ジャパンがどうとかで世間が姦しいけれど、私としてはなぜ「侍」に「ジャパン」が容易にくっつくのかの方に興味がある。パン屋を和菓子屋に置き換えたい人々が実際にいることに結構新鮮な驚きを禁じ得ないのに、侍にジャパンはなかなか剣呑ではないのか。暴論を承知で言うのなら、アメリカが大好きな右翼と言うのは存在するので、まあ似たようなものかも知れないと思ったりもする。

レッテル貼りについて多少の考察をしてきたけれど、野球はもちろんズバリ右側のスポーツだ。そしてその起源はベース・ボールなのだから、伝統がどうとか起源がどうとかはいつでも恣意的に選ばれてることも自明のことだろう。ところで、Jリーグというものが誕生した時以来(ここでもまたジャパンだ、彼らはジャパンジャパンと言うのが好きらしい。嗚呼クールジャパン万歳。)、国内的に見ればJリーガーとは長髪に茶髪がなにげにスタンダードだったから、明らかに野球選手とは趣を異にしていた。つまり、伝統的な(?)区分に従えば、ラフなスタイルに長髪やヒゲの選手たちはリベラルな側を体現していた。新しくて若く自由な雰囲気と言うわけだ。

ところがサッカーは国際的なものだから、対外的にはそれこそジャパン一色に染まる。左側に位置していたものがいとも簡単に正反対にシフトする。そしてワールドカップが開催される四年に一度、それは頂点に達する。色とりどりのバナーが咲き乱れ人々は熱狂するのだ。かつて誰かが言っていたことだが、ヨーロッパのサッカーファンが羨ましいと。互いにナショナリズム全開で応援しまくるけれど、各々がそれなりに強国で、それが故に後ろめたい想いから自由であるように見えるとのことだった。

私が中高の頃、年に一度体育祭と言うのがあって一学年四クラス、クラス対抗で盛り上がったのを思い出す。学力別のクラス等ではなかったから、その間にヒエラルキーなどは存在せず、確かに純粋に競争を愉しむかごときの様相を呈していた。きっとそういうことが言いたかったのだろう。なにしろ人々は競争が大好物なのだから。

ところで実際には話はそう簡単ではない。私の現在いるここ仏国では、アルジェリア戦などある夜には相当嫌な思いをしてしまう。勝っても負けても困るのだ。勝てば赤緑に三日月を染めぬいた国旗を掲げ、クラクションを鳴らしながら街を練り走る彼らはいかにも騒々しく、またそれを苦々しく思う仏人達の気持ちが伝染するし、負ければ負けたでザマアミロと内心思っている人々の気持ちが逆に心を蝕んでくる。いずれにしても「人類愛」なんて高尚なものとは程遠く、いかにも疲れてしまう。つい深刻になってしまう位のものだ。

恐らく、私達の本質なのだろう。部族部族にわかれて戦うのは。そしてその頸木から逃れるのは本当に困難だ。侍ジャパンなんてごった煮を言いながら無邪気に盛り上がれる人々を、かわいいものだと思える位には世界が発達するのを待つしかないのかも知れない。軽く千年位かかるだろうが、希望はないわけではない。各地がネットで繋がり鮮明なイメージを共有できつつあることの意義が今後問われるだろう。

キーワード:野球、サッカー、ワールドカップ、ナショナリズム、移民、情報インフラ。

第4995ラベル(レッテルの貼り換えと細分化)

レッテルを貼る、とは通常悪い意味で言われる。でも、正確に言うならば、それが悪くなる時と場合があると言うことだろう。例えば以前、女性はこうだから…と言いがちであった私は、他の人と一緒にしないでとやんわり窘められたことがあった。つまり、こう、の内容がいかに的を得ていようと、それとは無関係に人を傷つけ得るということを知った。一纏めにすること自体に問題があったというわけだ。また此方側にしても、若い時分、あなたは他の男とは違うわ、なんて言われて舞い上がったようなこともあるけれど、今はむしろ、別に他の男子と同じで中身はエロくて分別がないただのオスなのだから、あまり買いかぶらないでくれなんて思う。この場合、どうぞ「男」というレッテルを私に貼りそして理解して欲しいと思ったのだ。(一種の言い訳がしたかっただけかも知れない。)

立場の強い弱いは大いに関係するだろう。立場が強ければ別にレッテルを貼られても大してこたえはしない。昔、「大砲王」などと陰口を叩かれながらその実本人はまんざらでもなく思っていたクルップ社の当主のように「賞賛」にさえなる。だから、レッテル貼り=悪とは言い難い。そもそも、人間は良く知らぬものに対しては、レッテルを貼らずには理解できない、という仕組みがあるからだ。

例えば「アメリカ人の知り合い」ができたとしよう。でもいずれ、彼がジョンという名であることを知り、出身が何処であると知り、何を食べ何を好み何を信じるか知るにつけ、それは「アメリカ人のジョン」に変わり、そして終にはただの「ジョン」になっていく。(国籍が大きな意味を持つ現代では)多くの場合、初めは、「アメリカ人」という【便宜的な】フレームで理解せざるを得ないから、それに従い様々の思いこみも同時に脳に入れることとなる。でも理解が進めば私達はもう少しだけ自由になれる。

レッテル貼りは避けられない。ただ貼り換えがきく。ラベルの大きさも自由だ。むしろ常に貼り換え、ラベル自体を整理し続けることが(人類、あるいは自分自身の進歩のため)必要なものだ。そう理解することが大事なのだと思う。

キーワード:先入観、国籍、偏見、分析フレームの可動性。

第4996翼(世の右翼と左翼の違い)

世界を把握する際、プリミティブな人間の認知さえ本来的に「どんぶり勘定的」であるとするならば、その上に乗る私達の認識というものも当然信用がおけるとは限らない。というより、ほとんど信用できないと言った方が良いだろう。なんとなれば、いちいち確認する位の方が良い、なぜなら私達は(それも容易に)間違うからだ。

ところで、一言で確認する、と言ってもどうするのか。それは大きな問題だろう。人は自分の見ているモノを信じるわけだし、見える範囲のモノしか見ない。平面に穴が三つ空いていれば顔に見えるけど、実は違いますよと言うの位のレベルならば説得は容易だろうが、実際にはことは複雑だ。認知レベルで人が(あるいは自分が)どのように世界を歪めて見ているのか、というのは簡単にわかるものでもないだろう。様々の実験が必要だし、かなり専門的になってしまう。要は難しい。

でも、ものごとの認識のレベルであれば、それを細分化して洗練させていくことはできるかも知れない。あくまで枠組みを細かくしていくに過ぎないので、型にはめないことを求めるのならば本来的ではないし、または細かい分析に拘泥してしまって全体像を失ってしまう危惧もある。でも、細かい分析とは、ついざっくばらんに乱暴に陥ってしまう私達の認識を改めるのにはまず第一歩とはなるのではないか。

そこで、レッテル貼りの危険さを理解したうえで、あえて(遊びで)細かいレッテルを作ってみよう。二項対立では落ちるものも沢山あるけれど。右翼と左翼とをあえてレッテル貼りしてみる:

長髪短髪
あごひげ口ひげ
ツイードの背広軍服・制服
木靴長靴
パイプ・シガレットシガー
猫背鳩胸
黒ぶち眼鏡レイバン
ビールブランデー
バイク(除く白バイ)車・馬車
新劇歌舞伎
ガラスの仮面宝塚・ベルばら
コーヒー紅茶
トンカツカレー
三浦海岸葉山
ジェダイダースベイダー   
オネアミスの翼ガンダム
キャンドルジュン生け花
本草綱目五輪書
老子孔子
ピカソ東郷青児
夏目漱石森鴎外
宮沢賢治太宰治

あくまで「遊び」で勝手に分けただけだから(項の選択も恣意的だ)、反論・異論は沢山あることだろう。そもそも、人々を右と左の二極に分ける事自体が乱暴だ。実際には何軸もの基準があって、3D立体マップでも足りないことだろう。ところでちなみにパイプ呑みの私がシガーを別枠に置くのは、前世紀的価値観に沿ってるからであり、今日のように喫煙者全体が被差別民としてマイノリティを形成している状況では実は仲が良いのは周知のとおりだ。少数派となることで内部に連帯感が生まれたりすることは、皮肉にも面白い。

キーワード:認識、差異、différenciation、右翼、左翼、マイノリティ、連帯感。

第二五二稿(【スタック】油温計修理、メーターの針揺れ【アナログ】)

もう数か月ほど前の事になりますが、フランス東部のブザンソンまで往復900km程走った時の事。

第二三三稿(旅行雑感2016年9月フランシュ・コンテ地方)

油温計の針が踊りだしてしまった。
高速を走行中、ふと気づくと視界の下の方ででなにかが踊ってる。
機能的には特に問題でもないけれど、計器類がちゃんとしてないと気分が悪いし、走行中気が散るのも頂けません。
そもそも単に恰好いいから、というだけのナンパな理由でつけたアナログ油温計だから

第一九八稿(スタック油温計配線・センサー取り付けGSX-R1100)

見た目が悪くなるのはそもそもの趣旨に反するのです。
実は以前にもなっていて、その時はメーターを一度外し、でも針を抜くのが怖かったので
結局穴からシリコンオイルを吹いたりしたら直った、あるいは直ったように見えていたものです。
でも長距離走ると振動に負けるのか、結局元通りになってしまった。
走行中は振動でグラグラ揺れるし、イグニッションを切るとパタリと針が落ち、反動で数回揺れてからとまる。
つまり、針のダンパーが全く効いてない状況。

新品のスタックを買ったのに!と軽くショックを受けるわけですが、仕方がないので本腰を入れて直します。
ダンパーの原理自体は、硬めのシリコンオイルを針の根本部分に入れるだけなので後はメーターをばらすだけ。
とは言え普通メーターは非分解式なので、多少なりとも力技が要る。

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金属のベゼルのカシメを解く。
ひたすら細いドライバー等でこじ開けるだけです。
できるだけ傷がつかないようしたいけれど、原理上無理です。
裏面で見えなければ良い、の精神でいくしかない。

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針を抜くのには勇気が要りますが、色々検索するとみなさんフォークを使ったりドライバー使ったり、とにかく引っ張るしかない模様。
私はデンタルフロスを巻き付けて、一気に引き抜いた。
いろいろ針の形状等良く見て、針が折れないよう、また力のかかりやすいようすると良いでしょう。
フロスならばメーター面に傷もつきません。
また、抜く前に位置をマーキングしておかねばなりません。

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中は案外単純です。

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さらに分解するとここまでは行ける。でもこれ以上はコイルをほどかない限りは無理。
針の根本はコイルの中なので、オイルを入れようにもアクセスできない。
スピードメーター等の大径のメーターでは、ばらしていけばオイルを入れる容器まで到達できるようですが、この2インチ径の小型メーターではどうも勝手が違うようだ。これは困る。

そもそもなぜ針が踊るようになったのか?
保管中にダンパーオイルが流れ出て抜けた、というのが妥当な原因と思いますが、針の根本をまじまじと見ても抜けそうな隙間もないし、流れ出たオイルなんかも見当たらない。
ダンパーの仕組みが違うのか?もしかして電気式?とか色々悩みました。
オイルが入れられない以上、針にスポンジを貼って摩擦抵抗を与えてみたりも試してみた。
でも良い動きになりません。摩擦では針の動きが最初鈍くなるだけで、加速度がつくとやはり反動がでる。
締めすぎるとそもそも針が動かない。

(常の事ですが)悩んでいても仕方がない、ということでシリコンオイルを入れるべく穴を開けることに。
コイルをほどくのはちょっと現実的でないので、他に方法がない。
ダンパーの仕組みが違うのかも知れないけれど、まずは定石のオイルを試してみないと始まらない。

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0.3ミリという極小のドリルを回転ツールに仕込んで穴を開けてしまう。
軸受はただの樹脂なので、穴を開けるのは簡単。
最終的には0.3、0.5、0.7まで広げた。
ちなみにドリルは0.3-1.6㎜の極小セット、アリエクスプレスで200円位で手にはいります。

シリコンオイルはラジコン用の80000番、良く皆さんが使ってるキョーショーの80000番と同じ粘度なのかどうか確認しませんでしたが、用途も同じだしまあいいでしょう。
オイルと言うより、水飴のような粘度で糸を引くくらい硬いです。穴を開けずにはちょっと注入できないでしょう。
入れる時は、ドリルの先端に適量とって、それを逆回しにして内部に送り込むようにすれば入る。
注射器があればあるいは入るかも知れませんが、硬くて押せないだろうという位は硬いです。
量はわからないなりに「二滴ほど」入れてみた。

結果、



上々の動きに戻った!
極小ドリルやシリコンオイルの入手に時間がかかってなんだかんだと半年ほどかかりましたが、例によって格安の自家製修理で直って満足しました。
原因がわからずいろいろ悩む事も多い整備関係ですが、とりあえず先人のしてる事を勉強して素直にやってみろ、ということだとは思います。

※2017年4月追記:その後高速走行などもしてますが、調子は良いようです。きちんと正しい動きをしている。
万が一再発しても、既にあけてある穴からまたシリコンオイルを入れるだけなので、容易に直せるでしょう。

第4997偏見(認知システムと人の世の差別について)

いわゆる差別や偏見、先入観やクリシェ等と言うものは、人間の認知の仕組みからくる問題であることだろう。人は新しい「ナニカ」に出会った時、それをいちいち初めから認識したりはしない。つまり誰か知らぬ人に会ったとして、それをこれは有機質であり生物であり、脊椎動物であり哺乳類で霊長類か、性別は年齢はいかほどか、脅威になるのかそれとも仲良くできるのかあるいは生殖行為ができるのか等と順を追って確認したりはしない。それでは時間がかかりすぎて大変だからだ。だから、一瞬で判別できるような認知システムを脳内に既に構築している。つまりそれが生物としての生き残りに直接影響を与えるわけで、いわば本来的に必要不可欠な機能と言える。

逆に言えば、その認知システムを惑わせるような中途半端な存在があるとすれば本能的に忌諱してしまうのも頷ける。例えば「男か女かわからない」同性愛者というものが、かつて(そして恐らくいまだに)社会から排除されがちであったのも、そんな本能的なリアクションから簡単に説明ができる。型にはめることで理解を容易にしているのだから、型にはまらなければ理解しにくくなってしまうという原理だ。わけのわからないものは怖く思ってしまう。でもこれは、型そのものを進化させ深めていけばいずれは解決しうる問題とも言える。

(とりわけ)子供が異質なものを排除しようとするのも、同じく生存と認知という観点から説明できる。ヘンなものはとにかくつまはじきにして避けた方が安全だからだ。ここには生き延びねばならないという本能的絶対的行動に加えて(子供は生物的に弱い存在だ)、そもそもの認知の未発達がある。つまり見たものも少なければ経験も浅いのだから、理解できないものが当然多いのだ。だから、学校でいじめがおきるのはある意味当然なのだ。

そこで親や教育者のすべきこととは、子供の中ではいつでも仲間はずれが起きる可能性が多々あるということを理解すると同時に、彼らの見識を拡げさせるべく努めなければならない。つまり、一見違うかも知れないけれど、実は違わないということを学ばせなければならないだろう。実際、たとえば髪の毛が天然パーマだという程のことで仲間外れにされてしまうなんてあまりに馬鹿らしいことだ。でも原理的にそれは簡単に起こり得る。天パーが普通で直毛が珍しい環境なら、もちろん逆になるわけだ。具体的にはあちこち連れていくことが大事だろうし、そうでなくとも時空を超えて心の旅をさせることが大事なのだ。

キーワード:認知、認知バイアス、偏見、差別、教育。

第二五一稿(GSX-R1100エンジン降ろしと筋肉について)

2013-14の年末年始の頃。もう三年も経ってしまった。

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奥に鎮座するのが事故直後の初号機。
以来、二度と穴倉から出てくることはなかった。
手前が二号機のベース車。


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三年かかってようやくこの状態に。一号機です。
我が家の地下牢はせまい上、使わぬ家財道具なども入れざるを得ないので、かなりキツイ。
二台はギリギリなんとか入れられる。
とは言え、少しずつばらして処分しないと場所がないし、
それになにより心が重くなってしまう。

「バイク一台にホテル暮らし」が本来理想なのだ。

でも半流浪の身ながら家庭・暮らし的なものをここ数年構築してきて
それはそれで幸せであったようだ。
思えば古典的モデルに従えば、近代以降いわゆる先進国と呼ばれる地域においては
青年時代というものの拡大があって、若者はそれなりに自由を謳歌することもできる。
とは言え、どこかで腰を落ち着ける、というような概念も相変わらずかなり健在だろう。
もともと持てるものや、引き継げるリソースの有無が大幅に影響を与えるのも事実だ。
世界各地に拠点を持てる、なんてそうとう限られた階級の人間でないと無理なこと。

だからホテル暮らしなんてとてもじゃないけれどできないし、公団の住宅に侘び住まいさせて貰ってるのだ。
自分の力一つなんかでとても生きてなんかいけない。

ところで昨年間丸一年鬱病になってしまったかのようだったエリックが復活した。
これは良いニュースだ。
何故かわからないが妙に元気だし、もしかすると躁鬱的気質なのかも知れない。
いずれにしても、さっそく(自転車で)やってきてエンジンを降ろしてしまった。
同じく1100に乗る共通の友人のフレームの一部にひびが入ったと言うのだ。
(それも凄い話だ。どんな乗り方をしてるんだろう。)
そこでエンジン降ろしを手伝って貰う代わりにパーツを提供することにしたわけだ。
私の二号機のフレームにひびが入るとは思えないし、仮にそんなことになっても奴の田舎のガレージにはまだフレームが余ってる。
世界で愛されるスズキなのだ。

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毎回思うのだけれど、健康は大事だ。
物凄い力技であっと言う間にバラバラになってしまった。
固着してそうなボルト達が軒並みカキーンカキーンと言いながら折伏されていく。
これだからアルミフレームは好きなんだ、とご機嫌な荒法師たち。

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それでも後部のエンジンマウントはイカなかった。
仕方がないのでプレートごと外して見なかったことに。
お蔭で身代わりに台車が派手に逝ってしまう。恐るべし荒法師パワー。
確かにそんな時足技は有効なのだけど、今回に限ってはマウントの方が強かったようだ。
エンジン自体は加減速の度に後ろに引っ張られるのだから、マウントボルトが油冷パワーで恐らく歪んでるのだろう。

奴がK100RSのエンジンを一人で載せ替えしたのは知っていたけれど、
(腰にタイダウンをしてやるそうだ…と言うよりなぜそんなに頻繁にエンジンを載せ替えるのか?謎だ。)
油冷エンジンも、階段ではなく梯子で降りるような地下に二人で降ろした、というのは知らなかったし
いわゆる中年男の武勇伝の一つでしかないとは言え、内心舌を巻いてしまう。
その地下は私も知ってるのだけど、手ぶらで降りるのも決して簡単ではないのだ。
個人的には絶対に手伝いたくないし、その後どうやって出したのかは怖くて聞かないことにした。

とにかく、大友克洋がAKIRAとかで好んで語るような「健康優良不良少年」を思わずにいられない(中年だが)。
筋肉はやっぱり偉大なのかも知れないと思う。
単純に活動範囲が増えるし、できることも多くなる。
だからその分は、心は自由になるだろう。
人に強いることはできないけれど、自らの分は増やした方が良かろうと思う。
腕立て伏せを毎日することにした。